連載日本史213 明治の文化(4)
明治文学史の前半20年は、江戸時代の流れをひく戯作文学、文明開化の影響による翻訳小説、自由民権運動の影響による政治小説が主流であった。戯作では仮名垣魯文の「安愚楽鍋」、政治小説では矢野竜渓の「経国美談」などの作品があるが、本格的な近代文学の開花は、明治20年代の写実主義と言文一致運動の興隆を待たねばならなかった。
写実主義とは、戯作や勧善懲悪ではなく、現実をありのままに表現しようとするリアリズムである。写実主義の提唱者である坪内逍遥は「小説神髄」を著し、「早稲田文学」を創刊して文壇の中心となった。また、同じく写実主義の先駆者である二葉亭四迷は、日本初の言文一致体の近代小説である「浮雲」を発表した。つまり、それ以前は、話し言葉(口語)と書き言葉(文語)は完全に別物だったのである。
文体は思考を規定する。日常の話し言葉での文章表現が解放されたことで、日本の文学の裾野は一気に広がった。リアリズムの隆盛も近代文学の発展を促した。尾崎紅葉や山田美妙らは硯友社を結成し、紅葉は「金色夜叉」を発表して文芸小説の大衆化を進めた。一方、幸田露伴は「五重塔」を発表し、内面尊重の理想主義的作風を示した。紅葉・露伴の活躍した時代は紅露時代と呼ばれる。正岡子規は「歌よみに与ふる書」を著し、写実主義の立場から俳句・短歌の革新運動に乗り出した。
日清戦争前後には、北村透谷らの雑誌「文学界」を中心として、感情の優位を強調するロマン主義が台頭した。小説では樋口一葉の「たけくらべ」や森鴎外の「舞姫」、詩歌では島崎藤村の「若菜集」や明星派の与謝野晶子の「みだれ髪」などの個性的な作品が次々と発表された。
日露戦争前後になると、フランスやロシアの文学の影響を受けた自然主義が文壇の主流となり、人間社会の現実をありのままに描写しようとする風潮が強まった。田山花袋の「蒲団」、島崎藤村の「破戒」などが代表作である。歌人では明星派から出た石川啄木が、歌集「一握の砂」や評論「時代閉塞の状況」で、多くの生活詩や社会批評を残している。
明治末期には、時流にとらわれず独自の境地を開いた夏目漱石の作品群が多くの読者を得た。「吾輩は猫である」に始まり「三四郎」「それから」「こころ」など、知識人の内面や個人と社会との相克を描く漱石の作品群は日本の近代化の抱える矛盾を鋭く浮き彫りにしている。一方、武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉らは雑誌「白樺」を創刊し、人道主義を追求した。また、平塚らいてうは雑誌「青鞜」を創刊し、女性の権利伸長や精神の解放を主張した。俳句の世界では高浜虚子らが雑誌「ホトトギス」を創刊し、短歌では伊藤左千夫らが雑誌「アララギ」を創刊して、子規の遺志を引き継いだ。
明治の文学を概観してみると、相次ぐ雑誌の創刊も含めて、百花繚乱の爆発的な勢いが感じられる。しかし作者がいくら頑張っても、読者がいなければ文学の広がりはないわけで、やはり全国的な教育の普及があってこそ文学の発展が可能となったのだと言える。政府は義務教育を通して標準語の普及も推進していた。江戸時代までの幕藩体制の名残で各地の方言の隔たりは大きく、そのままでは意思の疎通にも事欠き、政治・経済・文化の発展を阻害するのみならず、軍隊の指揮命令にも影響を及ぼすからである。標準語の普及は、全国的なジャーナリズムの広がりを含め、さまざまな分野での日本の近代化に寄与したが、ナショナリズムの高揚とそれに伴う同調化圧力をも促進した。ジャーナリズムとナショナリズムは、表裏一体となって肥大化してきたのだ。
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