連載日本史195 大日本帝国憲法(2)
1889年2月11日に発布された大日本帝国憲法は主権在君の欽定憲法であり、天皇が神聖不可侵の国家元首として統治権の全てを総䌫する大権を持つというものであった。内閣は天皇の補弼機関であり、天皇に対して責任を負うものとされた。帝国議会は貴族院・衆議院の二院制で、貴族院は有爵(華族)議員と勅任議員、衆議院は公選議員によって構成されるが、いずれも天皇の協賛機関であるとされた。裁判も天皇の名において行うものとなっていた。つまり行政・立法・司法の三権は全て天皇に一元化されており、内閣・議会・裁判所は、あくまでそれに従属するものでしかなかったのである。
天皇は軍部に対しても統帥権を持ち、宣戦布告権・条約締結権・戒厳令布告権・緊急命令発動権を持っていた。富国強兵を旨とする明治政府にとって、天皇の名のもとに国民軍を強化することは既定の方針であり、緊縮財政政策をとった松方財政においても、軍事費だけは例外として増額されていた。憲法における統帥権の規定は、軍事重視の国家の在り方を明文化したものだと言える。
国民は天皇の「臣民」として規定され、法律の範囲内での権利を保障されたが、憲法制定を受けて具体的な民法典整備の段階で大きな論争が起こった。フランスの法学者であるボアソナードが起草した民法が、個人の自由と独立を重視しすぎており、日本の国情に合わないとの強い反対意見が出されたのだ。反対派の急先鋒は帝国大学教授の穂積八束であり「民出でて忠孝亡ぶ」という有名な言葉を残している。一方、賛成派の代表は同じく帝国大学教授の梅健次郎であり、「家父長権は封建制の遺産」だとして施行の断行を主張した。結局、民法の施行は延期となり、議会での修正を経て、戸主権を絶対化した家父長的家族制度に基づく新民法(明治民法)が改めて公布されるという異例の事態となった。この論争には現代の日本における改憲論争にも通じる論点が提示されていて興味深い。
民法に先立って施行されていた刑法には既に皇室に対する大逆罪や不敬罪、内乱罪や姦通罪などが規定されていたが、憲法の発布を受けて、よりドイツ法系の影響の強い刑法へと改正された。また、皇位の継承や皇室経費などについて定めた皇室典範も憲法と同年に制定されている。
憲法は国の法律の大元になる国家運営の基本綱領であり、法律や制度を定める上での拠り所になる大切なものである。とはいえ、憲法の記述は一般に抽象的・大局的なものになるため、具体的な内容や方法論は、個々の法律や制度に委ねるほかない。さらにその法律や制度を実際に解釈し運用するのは人間であり、憲法の精神がどこまで生かされるかは、結局は生身の指導者、ひいては個々の国民にかかっていると言わざるをえない。大日本帝国憲法には君主権が強すぎるという特徴があり、それが後世において拡大解釈を伴って様々な問題を引き起こすことになるのだが、当時の人々にそこまでの予測を求めるのは無理な話だろう。憲法発布の日、どれだけの人々がその内容を十分に理解していたかはわからないが、日本が近代立憲国家の仲間入りをしたということで、日本中がお祭り騒ぎに浮かれていたという。