オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~
オスマン帝国が衰退に向かっていた18世紀から19世紀にかけてイランでも王朝の交代による混乱があった。1736年にはサファヴィー朝のシャーを退位に追い込んだトルコ系軍人のナーディル・シャーがアフシャール朝を開いた。アフシャール朝はシーア派のウラマー(神学者)を追放し、スンニ派イスラム教を国教としたが政治は安定せず、戦乱で国土は荒廃し、民衆は王朝を支持せず、シーア派の信仰を保った。1747年にナーディルが殺害され、アフガニスタンにはアフガン人初の王朝であるドゥツラーニー朝が自立し、イランにはイラン人のザンド朝が成立した。ザンド朝は貿易や農業の振興を図り、30年近く安定した治世を保ったが、1779年にトルコ系のカージャール朝を創始したアーガー・ムハンマドによってイスファハーンを奪われ、18世紀末に滅ぼされることとなる。
テヘランを首都としたカージャール朝は内政面では強権的な王政国家であったが、外交面では帝国主義列強の力に屈し、ロシアの南下政策に対しては、二度にわたるイラン・ロシア戦争の敗北で、グルジア(ジョージア)・アゼルバイジャン北部・北アルメニアなどの領土を失った。1928年に締結されたトルコマンチャーイ条約はロシアに治外法権を認めた不平等条約であり、後に英仏とも同様の条約を結ぶ羽目に陥った。列強の植民地政策の常套手段である。イランへの更なる進出を図るイギリスは、1840年にイギリス・イラン通商条約を締結した。
イランをはじめとする中東地域に対して列強の注目が集まったのは、大量の石油の埋蔵が確認されたからである。19世紀半ばに米国のロックフェラーが始めた燃料用石油の増産は、石炭から石油へのエネルギー革命を促進した。ロシアはイランから奪い取ったアゼルバイジャンのバクー地方で油田開発を開始し、イギリスはイランで英国資本による石油の採掘を進めようとした。中国やインドと同様に、中東もまた帝国主義列強の植民地政策の標的となったのである。
帝国主義列強に妥協して利権のおこぼれに預かりながら、自国民に対しては圧政で臨むカージャール朝に対し、イラン民衆はシーア派ウラマーを精神的支柱として抵抗を強めた。1848年にはシーア派の分派であるバーブ教徒の反乱が起こるが、残虐な弾圧によって鎮圧された。1891年には、イスラム教徒の団結と反植民地闘争を掲げるパン・イスラム主義者アフガーニーの指導によるタバコ・ボイコット運動が起こった。これはカージャール朝の国王がイギリス資本にタバコの独占利権を供与する見返りとして純益の4分の1を受け取るという売国的な契約に対して、イラン民衆が蜂起した大規模な反政府・反帝国主義運動であった。
酒を飲めないイスラム教徒にとって、タバコは他の文化圏の人々以上に重要な嗜好品である。それを断ってまで運動が急激に広まったところに、当時のイラン民衆の激しい怒りが感じられる。西隣のオスマン帝国、北のアフガニスタン、南のエジプトにおいても、列強の植民地政策に反発し、体制の変革を求める人々の運動は、油井から噴き上げる石油のごとく、激しさを増しつつあった。