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連載日本史156 天保の改革(1)
大御所政治の末期、1837年にモリソン号事件が起こった。漂流民送還と通商要求のために浦賀に来航した米国商船モリソン号が、異国船打払令に従って砲撃されたのである。激動する国際情勢に対して交渉拒否一辺倒の幕府の対外政策を批判した蘭学者の渡辺崋山や高野長英は投獄され、処罰を受けた。いわゆる蛮社の獄である。
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いつまでも鎖国を続けていられないことは幕府もわかっていたはずである。1840年には中国(清)と英国の間でアヘン戦争が起こり、近代化された英軍に大敗した清は、1842年の南京条約で多額の賠償金と香港の割譲を余儀なくされ、さらに追加条約で治外法権や関税自主権放棄などの不平等条約を呑まされた。中国の半植民地化の始まりである。
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大御所家斉の死去に伴い、十二代将軍家慶のもとで老中水野忠邦が天保の改革に乗り出したのは、ちょうどその時期のことであった。アヘン戦争のニュースは幕府を揺るがし、忠邦は1842年に異国船打払令を撤回して、外国船への薪水給与令を発する。対外政策にせよ、内政にせよ、幕政の行き詰まりが限界に達しつつあった状況での改革は、苦し紛れの対症療法の繰り返しにならざるをえなかった。
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社会・経済政策では、物価の騰貴を抑えるために、独占的利益を得ていた株仲間の解散を命じた。また、農村から都市に流入した貧民を強制帰村させる人返しの法を発布し、あくまで農村を基盤とした従来の幕藩経済の秩序を守ろうとした。風紀面では倹約令を出して贅沢品や華美な衣服を禁止し、歌舞伎の江戸三座を場末の浅草に移転させ、人情本の為永春水や合巻の柳亭種彦を処罰した。すなわち、享保・寛政の改革に倣い、緊縮政策によって難局を乗り切ろうとしたのである。
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ヨーロッパでは既に産業革命が起こり、急速な近代化が進んでいた。産業革命を支えた原動力は、科学技術の進歩と新興ブルジョワジーの資本力、それに農村から都市に流入した労働力である。ということは、この時期の日本にも、自力で産業革命を起こす条件は、ほぼ出揃っていたと言ってもいいのではないか。しかし忠邦は、天保の改革において、あくまで従来の政治・経済体制を維持しようとした。それは彼が無知だったからではなく、産業構造の近代化は幕府の自己否定につながるということを予感していたからではないだろうか。