連載中国史48 清(7)
太平天国の乱の最中、1856年に広州に停泊していたアヘン密輸船アロー号船員の逮捕と、同年に起こったフランス人宣教師殺害事件を口実として、英仏両国が清に戦争を仕掛けた。いわゆるアロー戦争(第二次アヘン戦争)である。英仏連合軍は広州を占領し、更に海路を北上して首都に迫った。英仏に屈した清朝は、仲介にあたったロシアと米国も含めた列強諸国と1858年に天津条約を締結。南京・漢口・台南などの10港を開港し、外国公使の北京常駐やキリスト教の布教を認めることになった。しかし条約批准のため上陸した英軍に対して清軍が砲撃したため再び武力衝突となり、英仏連合軍が北京を占拠。この時、円明園も無残に焼き払われた。結果として、天津条約の批准に加え、1860年に北京条約が追加され、北京の外港である天津の開港、九龍半島南端の英国への割譲が認められた。こうした動きに便乗したロシアは、1858年に愛琿(アイグン)条約でアムール川(黒竜江)以北の領土を獲得。その際に清国との共同管理としたウスリー川以東の沿海州を、北京条約で自国の領土にしてしまった。
列強の要求に次々と屈した清朝であったが、皮肉にもこれが太平天国鎮圧における列強からの支援を呼び込む契機ともなった。欧米列強にしてみれば、弱体化した清朝の存続は、自らの利益に都合のよいものであったのだろう。北京条約締結と同じ年、米国軍人ウォードが中国人義勇軍に洋式訓練を施した常勝軍を組織。ウォードの死後は英国軍人ゴードンが後を継いで太平天国軍と戦った。また、曾国藩が湖南省で組織した湘軍や李鴻章が安徽省で組織した淮軍など、郷勇と呼ばれた地方軍も太平天国討伐で活躍した。さらに太平天国内部での指導者層の紛争や洪秀全の病死もあって、1864年に太平天国の首都天京(南京)は陥落し、14年にわたった内乱に終止符が打たれたのである。
太平天国の乱の鎮圧で功績を挙げた李鴻章らの漢人官僚は、「中体西用」というスローガンを掲げ、洋務運動と呼ばれる一連の改革を行った。これは清朝の政治体制を残したままで、西洋の工業・軍事技術を取り入れようとするもので、欧米から技術者を招いて、鉱山の開発や鉄道の敷設、近代海軍や官営軍需工場の設立を行ったのである。日本の明治維新が倒幕による政治体制変革を伴ったのとは対照的な動きであった。しかし、この洋務運動は、ほどなく清仏戦争、そして日清戦争の敗北によって挫折することになる。
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