連載日本史272 55年体制の終焉
東西冷戦の終結は、日本の国内政治にも大きな影響をもたらした。そもそも70年代・80年代を通じて、日本国民のライフスタイルの多様化は確実に進行しており、保守・革新の対立を軸とした55年体制の政治は既に時代遅れのものとなりつつあったのだ。冷戦の終結は、その趨勢に最後の一矢を撃ち込むこととなった。バブル経済が崩壊し、日本経済が長期にわたる不況へとなだれ込んだ90年代前半、日本の政治もまた大きな転換点を迎えたのである。
平成元年(1989年)、竹下登内閣が消費税導入と戦後最大の汚職事件といわれたリクルート事件への批判を浴びて退陣し、後継の宇野宗佑首相が女性スキャンダルのためにわずか2ヶ月で辞任。政治不信の風潮がますます高まった。1993年までは、海部俊樹首相、宮澤喜一首相と自民党政権が何とか持続したものの、その間にも佐川急便事件などの汚職事件が起こり、バブル崩壊による景気の悪化もあって、93年8月の解散総選挙で自民党の議席は過半数を割った。この機に乗じて政権奪取を図った野党連合は、日本新党の細川護煕党首を立てて首相指名選挙に勝利。非自民非共産の7党(新生・社会・公明・民社・日本新党・社民連・新党さきがけ)による連立政権を樹立した。ここに38年間もの長期にわたって与党の地位を保ってきた自民党は、結党以来はじめて野党となったのである。
細川内閣は政治改革を旗印に掲げ、選挙にカネがかかりすぎるのが問題だとして、小選挙区比例代表並立制を導入した。しかしそれは選挙において死票を増やすことになり、かえって政治への民意の反映を難しくする結果となった。さらに細川首相自身にも佐川急便からの不正資金提供の疑惑が持ち上がり、連立政権内の不協和音もあって、結局1年足らずで内閣総辞職となった。続いて新生党の羽田孜党首が首相となって内閣を組織したが、政権内の対立によって社会党と新党さきがけが連立を離脱。わずか2ヶ月で内閣総辞職となり、連立政権はあっけなく崩壊したのであった。
一方、政権奪回を狙う自民党は、連立を離脱した社会党と新党さきがけに急接近。社会党の村山富市委員長を首相に立てて自社さきがけの連立政権を樹立し、与党の座に返り咲いたのである。55年体制のもとで激しい対立を繰り返した自民党と社会党。両党のまさかの連立実現は、戦後の日本政治の枠組が大きく変化したことを人々に強く印象づけた事件であった。のみならずそれは、戦後の日本を支え続けた価値観の揺らぎをも象徴する出来事であったとも言えよう。その揺らぎは、翌年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件によって、さらに顕在化することになるのである。
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