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バルカン半島史㉗ ~冷戦下のバルカン半島~

戦後のバルカン半島は、東西冷戦の影響を強く受けることとなった。敗戦国となったルーマニアとブルガリアは、王政が廃されて社会主義国家となり、ソ連の強い指導下に置かれて東側陣営の一員となった。ドイツの占領から解放されたギリシャは英国の管理下に置かれたが、英国の支援を受けた王政派と共産党勢力との間で戦後の政治体制を巡る内戦が勃発。事態を収拾しきれなくなった英国の代わりに米国が介入し、共産党勢力を徹底的に弾圧して1949年に内戦を終結させた。一方、イタリア・ドイツの支配から解放された隣国アルバニアでは、抵抗運動のリーダーであったホジャの指導による共産党独裁政権が成立。当初はソ連、後には中国と関係を強めたが、70年代の米中接近を受けていずれの国とも国交を断絶。独自の鎖国政策をとる陸の孤島となった。そしてティトーのもとで再統一を果たしたユーゴスラヴィアは、自主管理社会主義と非同盟主義を掲げて、東西いずれの陣営にも属さない第三世界の一角として存在感を示すようになる。ここにバルカン半島は、ワルシャワ条約機構に属する東側陣営のルーマニアとブルガリア、NATO(北大西洋条約機構)に属する西側陣営のギリシャ、その間にあって独自の道を歩むユーゴスラヴィアとアルバニアに三分されたのである。

バルカン半島の中央部を占めるユーゴスラヴィア社会主義国連邦は多民族・多宗教・多文化を体現するバルカン半島の縮図のようなモザイク国家であった。7つの国境(イタリア・オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシャ・アルバニア)、6つの共和国(スロヴェニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴヴィナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニア)、5つの民族(スロヴェニア・クロアチア・セルビア・モンテネグロ・マケドニア)、4つの言語(スロヴェニア語・クロアチア語・セルビア語・マケドニア語)、3つの宗教(カトリック・東方正教・イスラム教)、2つの文字(ラテン文字・キリル文字)を擁すると言われたユーゴスラヴィア。ひとつの国家としてまとまっているのが奇跡のように思えるユーゴが40年以上にわたって統一を保ったのは、救国の英雄としてのティトーの指導力に加えて、東西冷戦の微妙なバランスに乗じた外交政策の成功にも一因があったように思われる。

1961年、ティトーの提唱で、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードにおいて第1回非同盟諸国首脳会議が行われた。インドのネルー、エジプトのナセルらをはじめ、東西陣営のいずれにも属さない25ヶ国の代表が集まり、第三世界の存在感を示した国際会議であった。共産党による独裁色を強めたルーマニアとブルガリア、軍事体制の強化に走ったギリシャ、鎖国体制を強化したアルバニアなど、内向的な停滞が目立った60年代のバルカン諸国の中で、第三世界のリーダーとしてのユーゴスラヴィアは国際社会において大きな存在感を示し得ていたと言える。

しかし「第三世界」という名称に象徴されるように、その存在感は東西二大陣営の対立が背景にあってこそのものだった。80年代に入ってカリスマ指導者ティトーが死去し、経済停滞から社会主義陣営が崩壊し、東西冷戦が終結に向かうと、その均衡は大きく崩れることになる。そして、戦後40年に及んだ冷戦構造の崩壊は、バルカン半島に新たな混迷を引き起こすことになるのであった。

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