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連載日本史120 織豊政権(5)

天下統一からわずか二年後の1592年、秀吉は朝鮮侵略に乗り出した。文禄の役である。秀吉は朝鮮の向こうに明(中国)を見ており、明に攻め込むための足がかりとして朝鮮に兵を向けたのである。朝鮮国民としては迷惑この上ない。秀吉の側近の中には、小西行長のように、軍事衝突回避のために腐心した武将もいたが、いざ戦闘が始まってしまうと、多くの武将が戦功を求めて朝鮮半島で暴れ回った。特に加藤清正の軍は各地を席巻したため、現代に残る朝鮮の民話でも、清正は完全に悪役として描かれている。一方で、対馬海峡で日本の水軍を撃退した李舜臣は、今もなお朝鮮の英雄として称えられている。

文禄・慶長の役関係図(「世界の歴史まっぷ」より)

後世にも残る日朝両国の軋轢を生んでまで、秀吉が朝鮮に攻め込んだのは何故だろう? 諸説あるが、実際のところはよくわからない。どれも合理的な理由にはなっていないからだ。少なくとも、秀吉の前半生を見る限りでは、彼は徹底した合理主義者であったと思われるのだが、晩年の彼には不可解な行動が目立つようになる。それは信長の妹お市の方の遺児である淀君を側室に迎えた頃から始まっているように思えるのだ。

淀君(淀殿)像(Wikipediaより)

文禄の役から三年さかのぼる1589年、淀君が懐妊し、秀吉は狂喜した。長年連れ添った正室の寧々(北政所)との間には子がなく、五十才を超えて初めて授かった我が子であったからだ。生まれた男子は鶴松と名付けられ、秀吉に溺愛されたが、二年後に病死。秀吉の嘆きは尋常ではなかった。秀吉を長年補佐してきた弟の秀長も前後して世を去っており、失意の秀吉は甥の秀次に関白職を譲った。自身の年齢から考えて、もう跡継ぎはが生まれることはないと判断したのだろう。同じ年、秀吉は、長年重用してきた茶人で堺の豪商でもあった千利休に切腹を命じている。弟子たちの助命嘆願ははねつけられ、利休の首は堀川の一条戻橋に晒された。権力者と側近の間に感情のもつれや利害関係のトラブルはつきものだが、若い頃の秀吉ならばこのようなことはしなかっただろう。同じ橋の上で、1597年には、秀吉の命によって、長崎での処刑を前にしたキリスト宣教師26名の耳が切り落とされている。

千利休像(Wikipediaより)

秀吉が明と朝鮮の征服を宣言したのは、鶴松の死と同じ年である。この時点で彼は、かなり精神の平衡を崩していたと考えられる。十六万もの大軍勢を送り込んだ朝鮮侵攻は、緒戦でこそ各地で勝利を収めたものの、朝鮮の義兵や明の援軍などの抵抗で戦線は膠着状態になり、1593年には講和交渉が開始された。その年、淀君が再び懐妊し、秀頼を出産した。本当に秀吉の子であったかどうかはわからないが、秀吉は鶴松の時と同様、秀頼を溺愛した。秀頼の誕生によって情緒不安定となった関白秀次は謀叛の疑いで殺され、半ば狂気を帯びた独裁者に誰も異を唱えることのできない恐怖の時代が続いた。

1597年、秀吉は再び朝鮮に十四万の大軍を送り込んだ。慶長の役である。前回同様、何のビジョンもない不毛な戦闘であった。翌年、秀吉が六十二才で死を迎えると、重臣たちによって朝鮮からの即時撤兵の命が下される。皆、彼の死を待っていたのだ。鮮やかな出世物語に彩られた戦国の英雄の、孤独で哀しい晩年であった。




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