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インドシナ半島史⑥ ~スコータイ朝~

ビルマ人の南下からやや遅れて、11世紀ら12世紀頃にかけて、中国南西部に居住していたシナ=チベット語族のタイ人も、インドシナ半島への南下を始めた。タイ人の勢力はチャオプラヤ川流域に広がり、すでに弱体化していたモン人の王朝であるドゥヴァーラヴァティ王国の領土を侵食していった。彼らは当初は、強大化したアンコール朝クメール(カンボジア)王国の支配を受けたが、次第に自立し、13世紀半ばにはスコータイ朝を興したのである。

スコータイ朝は、ビルマのパガン朝と同様、上座部仏教を受け入れ、三代目国王ラームカムヘーンの時代に全盛期を迎えた。王は支配地域をカンボジアやビルマやマレー半島にも拡大しながら、クメール文字の草書体をもとにタイ文字(シャム文字)を考案させて文化的にも大きな業績を残した。

クメール文字は古代インドのブラーフミー文字をもとに作られており、先住民のモン人の文字や、そこから作られたビルマ文字などとも共通のルーツを持つ。つまり、ビルマ・タイ・カンボジアは、文字の面から見ても、インド文化圏に属すると考えられるのだ。一方、タイ文字と同時期に作られたベトナム北部の民族文字であるチュノム(字喃)は漢字をもとにしており、明らかに別系統である。こうした点から見ても、ビルマ・タイ・カンボジア(ベトナム南部のコーカサス地方を含む)地域とベトナム中北部地域は別の文化圏に属しており、その間にインド文化と中国文化が接するボーダーラインがあったと考えられるのである。

14世紀半ばを過ぎると、スコータイ朝はチャオプラヤ下流域に興ったアユタヤ朝の勢力に圧迫されるようになる。アユタヤ朝は水上交通を活用した港市国家であり、スコータイからアユタヤへの勢力交代は、古代農業社会から大航海時代の国際交易社会への変化を反映しているとも言えよう。15世紀にはスコータイ朝はアユタヤ朝に併合されたが、タイ文字(シャム文字)は生き残り、現在もなお使われている。スコータイ朝最盛期を築いたラームカムヘーン王は自らの業績を石碑に刻ませたが、最も偉大な業績は石碑に刻まれた内容ではなく、それを刻んだ文字そのものであったのかもしれない。

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