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ローマ・イタリア史⑫ ~キリスト教の迫害から公認へ~

ローマ帝国の最盛期から分裂・衰退期に至る歴史は、キリスト教との関係を抜きには語れない。1世紀中頃、イエスの弟子であったパウロが、小アジアからローマにかけて旺盛な布教活動を繰り広げたおかげで、キリスト教はユダヤの地域宗教から世界宗教へと脱皮しつつあった。選民思想を根底に持つユダヤ教とは異なり、民族の枠を超えて全ての人間の普遍的な愛と救済を説くキリスト教は、世界最大の多民族帝国であったローマの人々の心をつかんだのだ。

加速度的に信者を増やしていく新興宗教の存在は、帝国の支配者にとっては脅威であった。もともと古代ローマの宗教は多神教であり、一神教のキリスト教は帝国の精神的・文化的秩序の攪乱者とみなされたのである。最初にキリスト教の迫害を行ったのは暴君ネロである。64年のローマの大火をキリスト教徒による放火だと決めつけたネロは、多くのキリスト教徒を残虐な方法で次々と処刑した。イエスの最初の弟子で十二使徒の筆頭であったペテロも逆さ十字架に磔にされて殺されたという。ペテロ殉教の地には後にサン・ピエトロ教会が建てられ、それがやがて教皇領となって、現在のバチカン市国へとつながっていくのだが、当時のローマ皇帝にとっては、キリスト教は帝国の秩序を脅かす怪しげな新興宗教にしか見えなかったのであろう。

キリスト教徒の迫害は、庶民にとっては、しばしば娯楽の対象となった。コロッセウム(闘技場)では、猛獣の餌としてキリスト教信者たちが食い殺される様子が見世物として提供された。しかし、そのような残虐な迫害を受けてもなお、キリスト教徒たちはカタコンベ(地下墓所)に隠れて自らの信仰を守り抜いた。むしろ度重なる迫害こそが信者たちの連帯を強めたと言ってもいい。

3世紀の軍人皇帝時代の混乱を収拾して帝位に就いたディオクレティアヌス帝は、最後にして最大のキリスト教迫害を行った。信者の処刑、教会財産の没収、書物の没収や焼却など、信仰の基盤を徹底して破壊する大迫害を展開したのである。それでもなお、信者たちは団結して信仰を守り、その紐帯は更に強化されたかのように見えた。

元首制(プリンキパトゥス)から専制君主制(ドミナートゥス)への政体移行に続き、肥大化する帝国の分割統治策として東西正副皇帝を置く四帝分治制(テトラルキア)に踏み切ったディオクレティアヌス帝の至上命題は、いかにして帝国の延命を図るかであった。初代皇帝アウグスティスから三百年あまりの年月を経て、帝国の制度疲労は限界に達していたのだ。305年、彼の譲位によってローマ帝国は名目的にも実質的にも東西に分裂する。西の正帝となったコンスタンティヌス帝は、増加の一途をたどるキリスト教徒への迫害を中止し、ディオクレティアヌス帝の迫害からわずか10年後の313年、遂にキリスト教の公認に踏み切った。ここから、宿敵であったはずの皇帝権力と宗教勢力の、相互寄生的な蜜月時代が始まるのである。

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