バルカン半島史㉔ ~第一次世界大戦~
1914年7月、ボスニアの首都サラィエヴォで起こったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件は緊迫した国際情勢に火をつけた。まずオーストリアがセルビアに宣戦布告。ロシアはセルビアを支持。オーストリアと同盟関係にあったドイツはロシアに宣戦。ロシアと露仏協商を結んでいたフランスはロシア支持に回り、フランスと開戦したドイツは中立国のベルギーにも侵攻。それに対して露仏と協商関係にあった英国がドイツに宣戦し、戦火は瞬く間に欧州全域に広がった。勢力均衡を保って戦争を回避するはずの同盟・協商ネットワークが、かえって多くの国を戦争に巻き込む結果をもたらしたのだ。
ドイツ・オーストリア連合軍とロシアが激突した東部戦線、ドイツと英仏が激突した西部戦線が激戦地となったが、バルカン半島でもオスマン帝国とブルガリアがドイツ・オーストリアの同盟国側で参戦したため、英仏露の連合国側に属するセルビア・モンテネグロ・ルーマニア・ギリシャとの激しい戦闘となった。短期で終結するという当初の予想は大きく外れ、大戦は各国が持てる国力の全てを注ぎ込んで国民を動員する総力戦の様相を呈し始めた。飛行機や毒ガス、潜水艦などの最新兵器の導入に加えて、感染症(インフルエンザ)の大流行が惨状に拍車をかける。1017年、制海権の確保を図るドイツが無制限潜水艦作戦に踏み切ると、中立を保っていた米国が連合国側で参戦。これが勝敗の分岐点となった。戦争末期にはドイツやロシアで革命が起こり、ドイツ国王ヴィルヘルム2世は亡命、ロシア国王ニコライ2世は処刑され、世界初の社会主義国ソビエト連邦が成立した。ボスニアの凶弾から始まった世界大戦は、各国の政体をも大きく揺るがしたのである。
大戦後のベルサイユ体制では民族自決の原則が唱えられたが、多民族・多宗教の混在するバルカン半島では、全住民が納得する形での線引きは事実上困難であった。かつて半島を支配したオスマン帝国は敗戦によって決定的な打撃を被り、戦後のトルコ革命によって崩壊する。ドイツ・オーストリア・ロシアの帝政三国は既に大戦中に崩壊しており、バルカン半島は以前のように帝国主義列強からの圧迫を強く受けることはなくなったが、それだけ半島内部での民族間・宗教間の軋轢が顕在化したとも言える。民族自決は言葉だけ聞くと正当に感じられる理念だが、実際にそれを社会に適用しようとすると有効に機能しないことが多いのではなかろうか。むしろ自民族中心主義や排外主義につながりかねない危険を孕んだ観念であるように思われるのだ。
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