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オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

19世紀初頭、オスマン帝国の改革に取り組んでいたセリム3世が守旧派勢力によって殺害された。代わってスルタンとなったマフムト2世は、その遺志を継いで帝国の近代化に着手する。市民革命・産業革命を経て近代化を進めつつあった欧米に倣い、中央省庁を整理再編して行政改革を行い、スルタンを凌ぐ実権を握っていた大宰相の権限を縮小した。外交面では西洋各国に常駐の大使館を置き、若手の官僚や軍人を派遣して西洋の制度を学ばせ、人材育成を図った。また、初等教育から中等教育につながる教育システムを整備し、軍隊や官吏の制服を洋装化した。つまり、日本の明治維新に相当する改革を、その半世紀前に開始していたのだ。

彼が実施した最大の改革はイェニチェリの廃止を伴う軍制改革であった。建国当初は最強の親衛隊として帝国の版図拡大と安定に貢献したイェニチェリも時代が下るに従って特権階級化し、改革の最大の障害となる守旧派集団となっていたのだ。1826年、イェニチェリの全廃と、それに代わる西洋式軍隊(ニザーム・ジェディット)の創設を掲げるマフムト2世に対して、イェニチェリは反旗を翻したが、民衆はマフムトを支持。西洋式の装備を擁した新軍によってイェニチェリの反乱はあえなく鎮圧された。既に時代は変わっていたのだ。

中央組織の近代化に成功したマフムトも、各地方の独立の動きへの対応には苦慮した。アラビア半島で聖地メッカとメディナを支配下に収めたワッハーブ王国に対しては、エジプト総督ムハンマド・アリーに命じて鎮圧に成功したものの、バルカン半島では1821年にギリシア独立運動が起こり、欧州列強が介入して情勢は一気に緊迫した。1827年、ナヴァリノの海戦で英仏露の連合艦隊に敗れたオスマン帝国は、1929年のアドリアノープル条約でロシアに北海沿岸を割譲し、翌年のロンドン条約でギリシアの独立を認めた。帝国の弱体化を見越したムハンマド・アリーは、エジプトの独立と自らの勢力拡大を図り、英仏と結んで1831年にオスマン帝国に第一次エジプト・トルコ戦争を仕掛けた。帝国からすれば、踏んだり蹴ったりである。

戦争の結果、ムハンマド・アリーはエジプトのみならす、シリアや北アフリカの統治権をも手にしたが、巻き返しを図るマフムトは1833年にロシアとウンキャル・スケレッシ条約を結び、ボスフォラス・ダーダネルス海峡の航行権を認める代わりに支援を得ることに成功。1839年には第二次エジプト・トルコ戦争が勃発したが、ムハンマドの勢力拡大を警戒するイギリスが今度はオスマン帝国側を支援。敗れたムハンマドは占領地を放棄し、翌年のロンドン会議で、エジプトはオスマン帝国の宗主権の下での独立を得るという形で決着がついた。

マフムト2世の死後、帝位についたアブデュルメジト1世は、ギュルハネ勅令を発して更なる改革に着手した。勅令には法の下での平等や財産権の保障、裁判の公開、兵役義務の整備など、近代法治国家への脱皮の意志が見られ、彼の改革はタンジマート(恩恵改革)と呼ばれた。1853年から56年にわたるクリミア戦争で英仏と同盟してロシアの南下を退けたことで、オスマン帝国は更に西洋化への傾斜を見せる。外圧への危機感から始まった上からの改革であるタンジマートは、国内産業の育成にまでは力及ばず、経済面での近代化には至らなかったが、一連の改革の中でミドハト・パシャらの有能な若手官僚が頭角を現した。ミドハトは立憲政治の実現を目指し、アブデュルハミト2世の治世下で宰相となり、1876年に立憲君主制を基調とするミドハト憲法を制定した。しかしながら翌年に南下政策を再開したロシアとの間で露土戦争が勃発。アブデュルハミト2世は戦争を口実に憲法を停止し、ミドハトを追放してスルタン専制政治へと改革を逆行させてしまった。結果的に帝国は戦争に敗北し、1878年のサン・ステファノ条約とベルリン条約によって、ロシアにはコーカサス山脈以南の領土を奪われ、バルカン半島におけるセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められ、仲介に入ったオーストリアにはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権、イギリスにはキプロスの統治権を認めることになり、オスマン帝国の領土は大幅に縮小した。外圧に始まった改革は外圧に終わり、内部改革に失敗したオスマン帝国は列強から「瀕死の病人」と呼ばれるまでに衰退していったのである。

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