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連載日本史66 平氏政権(3)

一の谷・屋島と敗戦を重ねた平家軍は、関門海峡の壇ノ浦で最後の決戦に臨んだ。序盤は海戦を得意とする平家軍が優勢であったが、潮の変化に乗じて源氏軍が巻き返し、激戦の末に勝利を収めた。義経の八艘跳び、能登守教経の奮戦などの逸話が残る。平家軍の総大将の知盛(清盛の四男)は「見るべきものは見つ」と自害を遂げ、安徳天皇は祖母の二位尼(清盛の妻時子)や母の建礼門院(清盛の娘徳子)とともに、わずか八歳で海に身を投げた。海上には敗れた平家軍の紅旗が漂い、血の海さながらであったという。

壇ノ浦の戦い(「安徳天皇縁起絵図」より)

京では、平家の都落ちの後、既に後鳥羽天皇が即位していた。その時点で、二人の天皇が並び立つ事態になっていたわけだが、皇位継承のシンボルである三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)は、平家方の安徳天皇のもとにあった。安徳天皇の入水とともに三種の神器も海に沈み、鏡と勾玉は後に引き揚げられたものの、宝剣は発見されなかった。また、海に身を投げた人々のうち、建礼門院だけは源氏軍に救助され、後に京に戻って平家の菩提を弔っている。

三種の神器(touken-world.jpより)

平家軍滅亡の後、義経は鎌倉へ凱旋しようとしたが、彼の独断専行に不信感を抱く頼朝は鎌倉入りを認めなかった。恨みを抱いて京に戻った義経は、後白河院から頼朝追討の院宣を得て挙兵しようとするが、周囲の武士たちの賛同を得られず失敗に終わる。頼朝はこれを逆手にとって後白河院に圧力をかけ、義経追討の院宣を出させるとともに、それに乗じて全国各地への守護・地頭の設置を認めさせた。ピンチをチャンスに変える政治力は大したものである。守護・地頭の設置は最初から彼の戦後構想に入っており、それを実現する機会を狙っていたのだろう。ここに頼朝の組織した武家政権による支配体制が確立した。彼が正式に征夷大将軍に任命されるのは1192年だが、最近ではこの1185年をもって事実上の鎌倉幕府成立とみなす見方が主流になりつつある。

後白河院(「天子摂関御影」より)

源平合戦を含む治承・寿永の乱において際立つのは、後白河院の無節操ぶりである。平清盛と結んで日宋貿易を推進し、清盛の妻時子の妹滋子(建春門院)を妻として平家の栄華に与しながら、滋子の死後は清盛との対立を深め、平氏打倒の陰謀に加わる。二人の間をとりもっていた清盛の長男重盛が死去すると対立は激化し、1179年(治承三年)には清盛によって鳥羽殿に幽閉され院政を停止させられている。清盛の死後、院政を再開した彼は再び平氏政権と協調姿勢をとるが、木曽義仲の進軍によって平家が都落ちすると、義仲に平家追討の院宣を出した。ところが義仲が都で目に余る略奪を行うと、今度は頼朝に義仲討伐を要請する。さらに平家滅亡が明らかになると、頼朝・義経兄弟の対立を煽り、義経に頼朝追討の院宣を出した翌月には、頼朝に義経追討の院宣を出している。もはや何がしたいのか全くわからない。

しかしながら、この後白河院の迷走があったからこそ、時代の劇的な転換が促進されたともいえる。特に頼朝は、無節操な院宣が出される度に、それを逆手にとって巧みに譲歩を引き出し、自らの支配体制を確立させていった。征夷大将軍の任命こそ拒否したものの、頼朝の描いた武家政権の構想に、次々とお墨付きを与えたのは後白河院である。ある意味、鎌倉幕府成立の最大の功労者は後白河院だったとも言えるのである。

1192年、激動の時代を生き抜いた後白河院は六十六歳で死去した。彼の死後、頼朝は念願の征夷大将軍の任命を受けた。頼朝は後白河院を「日本国第一の大天狗」と評したが、最大の天狗は頼朝自身だったのかもしれない。




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