連載中国史4 殷
20世紀初頭、黄河文明の流れをひく河南省安陽県で、紀元前1000年紀後半のものとみられる殷王朝後期の遺跡、いわゆる「殷墟」が発見された。それまで伝説上の存在であった殷王朝の実在が証明されたのである。発掘された王墓には、切断された大量の頭骨や殉死者の遺体が並べられており、王の死に際して多くの人身御供が捧げられたことを示している。すなわち、強大な権力が既に出現していたわけだ。
殷は邑制(ゆうせい)国家の連合体であった。邑制国家とは大邑(都市)が周辺の村落を従えて形成した小国家を指す。そうした邑制国家の中で最も強大であった「商」の首長が王となり、その他の邑制国家を族邑として従えていたのだ。王の主宰する祭祀がその結合を支えていた。つまり、殷の政治形態は、祭政一致の神権国家であったと言える。
殷で生まれた中国最古の文字である甲骨文字は、そうした祭祀の場で亀甲や獣骨に刻まれる呪術的な意味合いを帯びたものであった。物事の正邪や吉凶は卜(ぼく)すなわち占いによって判断された。殷の王は卜を取り仕切り、神の世界と人間界を往来するシャーマンとしての役割を果たしていたのだ。
殷に先立ち黄河流域には夏(か)と呼ばれる王朝があったと言われている。今のところ伝説の域を出ないが、そのうち遺跡が確認されるかもしれない。夏の実在が確定されれば、紀元前2000年頃には既に中国には古代国家が成立していたことになる。中国4000年の歴史と呼ばれるゆえんである。
権力者の交代については中国に古くから伝わる易姓(えきせい)革命という思想がある。「易」は「代える」という意味、「革」は「改める」という意味で、民衆を苦しめる暴君に対しては天命を改める、すなわち革命(放伐)によって政権を奪ってもよいとする考え方である。伝説上の夏王朝では、名君と呼ばれた堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の時代には、有徳者から有徳者への平和裡の政権委譲、すなわち「禅譲」が行われていたが、末期に帝位についた桀(けつ)王が暴君であったため、殷の湯(とう)王が桀を武力で廃し、新たな王朝を開いたと言われている。その殷も末期になると紂(ちゅう)王という暴君が現れ、周の武王に放伐されて新たに周王朝が開かれたというのだ。何となく、後世の王朝が自らの権力の正統性を主張するために考え出した思想のようにも思えるが、「革命」という概念が既に紀元前の昔に生まれていたというのは興味深い。