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連載日本史52 摂関政治(4)

摂関政治の時代、荘園は更に拡大した。初期の荘園は開墾した土地を私有する墾田地系荘園が主流であったが、平安中期には、有力者に寄進して保護を仰ぐ寄進地系荘園が主流となった。荘園を開発した領主は領家と呼ばれる貴族や寺社に荘園を寄進し、自らは荘官として荘民の管理にあたる。領家はそれを更に、本家と呼ばれる皇族や大寺社や摂関家に寄進する。そうすれば、国司(受領)の支配から逃れることができるのである。中央の権力者を本家に戴く荘園は、不輸・不入の権と呼ばれる免税特権・治外法権を獲得した。こうして有力者たちの私有地である寄進地系荘園は、国司の支配する公領(国衙領)を浸食しながら発展していく。

公領と荘園の併存(「世界の歴史まっぷ」より)

藤原摂関家が安定した地位を築いたのは広大な荘園という経済基盤を持っていたからにほかならない。一方、荘園の開発領主から見れば、摂関家の保護を受けることで納税義務や国司の介入を免れるというメリットがあった。いわば官民一体の利益共同体が成立していたわけだ。摂関政治の全盛期であった道長・頼通の時代には公卿(摂政・関白・大臣・大納言・中納言・参議)の八割以上が藤原氏であり、その強力な政治力の保護を求めて更に荘園が寄進され、それを基盤にして更に権力が強化されるという無限ループであった。

藤原道長・頼通・天皇関係系図(manareki.comより)

荘園と並んで藤原氏の権力の源泉となったのは政略結婚である。道長は四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)をそれぞれ一条・三条・後一条・後朱雀天皇の妃とし、頼通は娘の寛子を後冷泉天皇の妃とした。つまり五代にわたって藤原氏系の天皇が続いたことになる。頼通は後朱雀・後冷泉天皇の時代に、五十年にわたって関白を務めた。当時の貴族の結婚は、夫が妻のもとを訪れる通い婚(妻問婚)が主流であり、生まれた子供は妻の実家で育てられるため、妃の実家である藤原家は次期天皇が育つ場となり、妻の父である藤原氏は天皇の外祖父として圧倒的な影響力を持つに至ったのである。

土地と婚姻を権力の源泉とした摂関政治は、藤原氏の外戚ではない後三条天皇の即位を機に、翳りを見せ始める。1069年、後三条天皇は延久の荘園整理令を公布、記録荘園券契所を設置し、大江匡房や源経長を寄人に指名して、荘園の審査を徹底した。結果として、公領と荘園の明確な線引きが行われ、全ての土地は、朝廷・国司・目代・郡司らを支配系統とする公領と、本家・領家・預所・下司らを支配系統とする荘園のいずれかに属することになる荘園公領制が成立した。これが後に、荘園を経済基盤とする藤原摂関家に対抗する、公領を経済基盤とした院政の誕生へとつながっていくのである。



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