インドシナ半島史④ ~アンコール朝~
扶南を滅ぼして成立したカンボジア・クメール王国(真臘)は、8世紀には北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂していたが、9世紀初頭にアンコール朝のジャヤヴァルマン2世によって再統一され、現在のカンボジア周辺のみならず、ベトナム南部のメコン川デルタ地帯を含むコーチシナや、ラオスの大部分、タイの東部をも含む、インドシナ半島最大の王国となった。アンコール朝は12世紀のスールヤヴァルマン2世の時代に全盛期を迎え、壮大な寺院建築であるアンコール・ワットも、この時代に建設された。
世界遺産として有名なアンコール・ワットは仏教寺院のイメージが強いが、もともとはヒンドゥー教の寺院として建てられたものである。周囲の回廊の壁には古代インドの二大叙事詩である「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」のストーリーが細かく浮き彫りにされており、ヴィシュヌ神やシヴァ神などヒンドゥー教の神々の姿も随所に見える。スールヤヴァルマン2世は、神王思想に基づき、王とヴィシュヌ神の一体化を目指し、神々と並べて自らの勇姿をレリーフにして回廊に飾らせている。
ヒンドゥー教は、創造の神であるブラフマン、宇宙を維持する神であるヴィシュヌ、破壊を司る神であるシヴァの三神を最高神とする多神教であり、知識(ジュニヤーナ・ヨーガ)、行為(カルマ・ヨーガ)、信愛(バクティ・ヨーガ)を通じて梵我一如、すなわち宇宙(ブラフマン)と自己(アートマン)の一体化を目指す。仏教やジャイナ教にも通底するこの哲学は現在のヨガにおける呼吸法や瞑想にも通じており、古代から連綿と繋がるインド思想の奥深さを感じさせる。ヨガは単なるストレッチではなく、深遠な哲学をも併せ持った心身の健康法なのだ。
アンコール朝の繁栄は、もちろん経済的な基盤あってのことである。カンボジアを流れるメコン川流域は、古くから豊かな穀倉地帯であった。モンスーン(季節風)の影響で雨季には毎年のように氾濫するメコン川は流域に肥沃な土壌をもたらし、そのメコン川に繋がって雨季と乾季で3倍の面積差を持つトンレ・サップ湖は自然の貯水池となり、周辺に絶好の漁場を提供する。こうした自然の恵みによって、カンボジア・クメール王国では豊かな物々交換の経済が成り立っていたのである。
スールヤヴァルマン2世の死後、アンコール朝はチャンパーの侵攻を受け、一時は首都アンコールも占領されたが、1181年にジャヤヴァルマン7世がチャンパーを撃退して首都を奪回し、アンコール・ワットの北に都城アンコール・トムを完成させた。ジャヤヴァルマン7世は熱心な仏教徒であったのでアンコール・トムには多くの仏教寺院が建立され、アンコール・ワットも、この時代に仏教寺院として使われるようになったのである。彼は国内の道路網を整備し、多くの病院(施療院)を建設し、一時はチャンパーをも征服して、その版図はインドシナ半島全土に及んだ。彼の死後、王朝は次第に衰退に向かうが、それでもなおアンコール朝は15世紀にタイの侵攻を受けてアンコールを放棄しプノンペンに首都を移すまで数百年の命脈を保った。13世紀末に元の使節に随行してアンコールを訪れた周達観による「真臘風土記」には「富貴真臘」の記述があり、当時の王国の経済的繁栄がうかがわれる。
アンコール朝の政治体制は、王を頂点として高僧や大臣など一握りの特権階級が権力を独占する、祭政一致の寡頭政治であった。それゆえに指導者層の質の劣化が国家の危機に直結することになる。それでもアンコール朝が長期の政権運営を保ち得たのは、豊饒な農業生産力を基盤とした経済力があったからだろう。それだけの豊かさに恵まれながら、政治的・思想的争いから多くの餓死者や難民を出してしまった20世紀のカンボジア内戦は、いったい何だったのだろうと考えざるをえない。