連載日本史187 明治初期の外交(1)
岩倉使節団の外遊中、留守政府では征韓論すなわち朝鮮への出兵を求める声が高まりつつあった。当時の朝鮮は鎖国攘夷政策をとっており、幕末以降、開国へと大きく舵を切った日本との軋轢が強まっていた。欧米諸国と肩を並べるため、独立国として朝鮮と正式な国交を求める明治政府の要求は、極端な攘夷論者である大院君が政権を握る朝鮮には受け入れられなかった。武力によって朝鮮を開国させようとする板垣退助らに対し、西郷隆盛は自分が使節として朝鮮に赴くと主張し、太政大臣三条実美の承諾を得て1873年8月、留守政府は西郷の朝鮮派遣を決定した。
ところが9月に岩倉使節団が帰国すると、情勢は急転した。岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは、朝鮮への使節派遣は時期尚早であり戦争の火種になりかねない、まずは外征よりも内政の充実を優先させるべきだとして、西郷の訪朝に強く反対したのである。間に立った三条実美は心労から病に倒れ、太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に受け入れられ、一度は閣議決定された西郷の派遣が覆されたのである。西郷・板垣らはこれを不満として下野し、政府の中枢から外れた。いわゆる明治六年の政変である。
この政変は征韓派と内治派の対立という図式に見えるが、政権内の主導権争いという要素も含んでいたようである。帰国組と留守番組の間の感情的な軋轢も背景にあったことだろう。政変の翌年、明治政府は琉球漂流民殺害事件の処理を巡って台湾出兵を断行した。内治派は前年の主張を自ら覆したことになる。出兵に反対した木戸孝允は下野し、明治維新の立ち上げメンバーは更に分裂することとなった。
なぜ政府は、征韓論争との矛盾をわかっていながら、台湾出兵を断行したのだろう。その背後には、琉球を巡る日本と清国との駆け引きがあった。日本と清は1871年には対等の条件で日清修好条規を結んでいたが、琉球は日中両属の形態でグレーゾーンに留め置かれた。清は台湾に関しても自国の領土であるとの立場をとっていたが、琉球の漂流民が台湾の原住民に殺害されるという事件が起こると、台湾原住民は「化外の民」ということにして責任を回避する姿勢をとった。琉球を日本の領土として確定したい日本としては、自国民保護という建前からも、清国の責任を追及し、台湾に対して強硬な姿勢で臨まざるを得なくなったのである。結局、清は日本の台湾出兵を「義挙」として認め、日本軍の撤兵を条件に賠償金五十万両を支払った。
外交とは相手のある仕事であり、しかもその相手は自分の知り得る常識や価値観で動くとは限らない。もちろんそれは、相手から見ても同じである。日本が朝鮮や清を理解しがたいと思っていたのと同様、先方は日本を理解しがたい国だと感じていたことだろう。つい数年前まで鎖国だ攘夷だと騒いでいたのに、なんと節操のない国かと思われていたかも知れない。実際、その翌年に日本が朝鮮に対してとった政策は、節操がないと非難されても仕方のないものだった。
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