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インド史⑫ ~英領インド帝国~

1877年に英国ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるという形で大英帝国の直属となったインド帝国では、現地住民の連帯を阻むために、さまざまな分割統治政策がとられた。まずは各地域の藩王(マハラジャ)に対する分断策である。イギリスに抵抗する藩王は武力で抑え込んでその領地を英国直轄領とし、服属した藩王には一定の自治権を与えて間接統治を行ったのだ。各々の藩王とは個別に協定を結び、待遇に差をつけることで分断を図ったのである。加えてインド古来のカーストを利用した分割政策も行われた。

英国のインド経営における分割政策の最大のものは、宗教を利用した分断策であろう。ヒンドゥー教徒をイスラム教徒よりも相対的に優遇することで対立感情を煽り、両者の連帯の芽を予め摘み取ろうとしたのである。これはアウラングゼーブによる融和政策撤回後のヒンドゥー・ムスリム間の対立を更に激化させることとなり、後世に深刻な問題を残すことになった。

1905年にはインド総督カーゾルが更なる宗教的分断を狙ってベンガル分割令を発した。これはもともと一つの行政区域であったベンガル地方をヒンドゥー教徒の多い地域とイスラム教徒の多い地域に分割するというものであったが、かえって住民の反発を呼び、英国の植民地統治に対する抵抗運動を激化させる結果になった。この過程で、もともと親英政党として1885年に結成されたインド国民会議派も、英国に対抗して植民地支配からの独立を目指す勢力へと変貌していった。1906年にはカルカッタの大会で、後の独立運動の柱となるスワラジ(自治)・スワデシ(国産品愛用)・英貨排斥・民族教育の四大綱領が採択された。これに危機感を覚えたイギリスは、今度はイスラム教徒を支援して全インド・ムスリム連盟の結成を促した。またしても宗教対立を煽ることで独立運動における連帯を阻止しようとしたのである。

イギリスはインド植民地支配の過程で多くの鉄道を建設し半強制的に英語教育を広めた。これが後のインドの経済発展につながったとの指摘もあるが、だからといって、それが英国の非人道的な植民地政策の免罪符になるわけではない。インフラ整備にせよ、英語教育の拡充にせよ、それらは決して現地住民のために行った政策ではなく、綿花・茶・アヘンなどの植民地商品作物の積み出しや通商活動の円滑化など、宗主国イギリスの利益を念頭に置いて実施されたものに過ぎなかった。それよりも先述した分断政策による傷跡の方がよほど深いと言わざるをえない。「植民地支配では良いこともした」というのは、結局は加害者側の言い訳に過ぎず、少なくとも加害者が被害者に向けて胸を張って言えるような話ではないのだ。

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