連載日本史253 朝鮮戦争(2)
朝鮮戦争の開戦により、在日米軍は朝鮮半島へ向けて出撃し、占領下の日本には軍事的空白が生まれることとなった。この状況を危惧したGHQは、吉田内閣に警察予備隊の創設を指示。これが後に保安隊となり、現在の自衛隊へとつながっていくのである。さらにGHQは社会主義思想の広がりを警戒し、共産党関係者を公職から追放するレッドパージを進め、反共産主義の労働組合育成のために、日教組や国鉄労組など17組合の連合体である日本労働組合総評議会(総評)を結成させた。一方、戦争指導者として公職から追放されていた戦前の保守派官僚や政治家に対しては、追放解除を行って公職復帰を認めた。すなわち、朝鮮戦争は、日本の政治に対しては、部分的にではあるが、いわゆる「逆コース」回帰の動きをもたらしたのだ。
1951年9月、サンフランシスコ講和会議において平和条約が調印され、日本は独立主権を回復した。ただしそれは、ソ連や中国を除く西側諸国のみを対象とした講和であり、同日に調印された日米安全保障条約によって、独立後も日本に米軍が駐留することが取り決められた。国内では、東側諸国も対象とした全面講和を求める声も少なくなかったが、吉田内閣は早期独立を目指して単独講和に踏み切った。これ以降、日本は米国を中心とした西側陣営の一員としての立場を鮮明にしていくのである。
サンフランシスコ平和条約により、日本の賠償責任は著しく軽減された。一方、領土については厳しい制限が加えられ、朝鮮の独立や台湾の放棄に加えて、南樺太や千島列島の領有権も放棄することとなり、さらに沖縄と小笠原諸島は引き続き米国の施政権下に置かれることになった。この時に放棄した千島列島に北方領土(国後・択捉・歯舞・色丹)は含まれるのかという問題や、韓国との間での竹島問題、中国との間での尖閣諸島問題など、いくつかの領土問題を後に残すことにはなったが、日本は概ね日清戦争以前の領土に立ち返って再出発することとなったのであった。