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連載中国史6 春秋時代(1)

紀元前770年、西方の異民族である犬戎(けんじゅう)の侵入により、周の都の鎬京(こうけい)が陥落した。周は東方の洛邑(らくゆう)に遷都し、統治力は衰えたものの、諸侯に対する権威は存続した。諸侯は「尊皇攘夷」を名目として同盟を結び、周王室の権威を尊重しながらも、同盟の盟主である覇者の地位を目指してしのぎを削った。

春秋時代(「世界の歴史まっぷ」より)

諸侯の中でも抜きん出た武力を持っていたのは斉・晋・楚・越・呉の五国、いわゆる春秋の五覇である。隣国同士の組み合わせは何かと争うことが多く、特に長江下流の呉と越は領土を巡って骨肉の争いを何度も繰り広げた。越王勾践(こうせん)との戦いで死んだ呉王闔閭(こうりょ)の息子の夫差(ふさ)は、その恨みを忘れぬように、薪の上に寝て自らの体を痛めつけ、越への復讐心を保った。軍師の伍子胥(ごししょ)の補佐を受けて会稽山で越を打ち破った夫差は、伍子胥の忠告にも関わらず、土下座して命乞いする勾践を許してしまう。勾践は会稽で受けた恥辱を忘れまいと苦い肝を嘗めて日々を過ごした。やがて力を蓄えた越は再び巻き返しを図り、策を弄して夫差に伍子胥を誅殺させた上で、呉との再戦に臨んだ。敗北した夫差は、あの世で伍子胥に会わせる顔がないと、顔を布で覆って自害したという。結局、争いを繰り返した二国は国力を疲弊させ、ともに隣国の楚に滅ぼされるのだが、いずれのエピソードも人間の業(ごう)を象徴していて興味深い。

会稽山(4travel.jpより)

「呉越同舟」「臥薪嘗胆」「会稽の恥をすすぐ」など、呉と越の戦いから生まれ、現代の日本でも用いられている故事成語は数多い。2500年前の故事に端を発する言葉が、時代や地域を越えて生き残ってきたというのは驚くべきことだ。裏を返せば、人間の本質的な部分は、紀元前の昔から現代に至るまで、さほど変わっていないということなのかもしれない。

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