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オリエント・中東史⑳ ~ムワッヒド朝とマムルーク朝~

オリエントでイスラム世界と十字軍の戦いが繰り広げられていた12世紀、北西アフリカのモロッコではイスラム神秘主義の影響を受けた定住ベルベル人によるムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼし、マグレブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)地方を統一した。バグダードのカリフの権威を認めず独自のカリフを建てたムワッヒド朝は、イベリア半島にも進出した。これに対してローマ教皇インノケンティウス3世は、13世紀初頭、キリスト教諸侯に対してイベリア半島への出兵を呼びかけた。オリエントでサラディンによるイスラム・キリスト教間の講和が実現したのも束の間、今度は西方で両派の衝突が再燃したのである。

1212年、コルドバ北方の戦闘でキリスト教側の連合軍はムスリム軍を撃破。ムワッヒド朝は征服地の一部を放棄した。これ以降、勢いを得たキリスト教徒側によるイベリア半島の国土回復運動(レコンキスタ)が活発化する。さらに東方では、アイユーブ朝の内部分裂に乗じて、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリッヒ2世率いる第5回十字軍が、1229年に外交交渉でエルサレムを獲得。キリスト教勢力が徐々に巻き返しを見せ始めたのである。(ちなみに13世紀初頭の第4回十字軍は、エルサレムではなく、なんと同じキリスト教陣営のビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占拠してラテン帝国を建設するという、信じられない結末を見せた。ここにキリスト教における西方カトリックと東方正教の分裂は決定的なものとなった。こうした一連の事件からも、キリスト教・イスラム教陣営が双方ともに一枚岩ではなく、十字軍もまた、その場その場の利害得失で動く御都合主義的性格を持っていたことが伺える。)

弱体化したアイユーブ朝の中で頭角を現したのがマムルークである。もともと、マムルークとはトルコ系の奴隷兵士を意味する言葉であり、9世紀から10世紀にかけて中央アジアを支配したイラン系のイスラム王朝であるサーマーン朝に起源を持つ。文化的・経済的に進んでいた中央アジアのイラン系定住民が官僚となって、戦闘力に優れたトルコ系遊牧民を組織して軍事面で活用したのが始まりだという。それがアッバース朝・ブワイフ朝・セルジュク朝などを通じてアイユーブ朝時代まで続き、紛争の増加とともに発言力を増し、セルジュク朝の宰相ニザーム・アルムルクが制度化したイクター制のもとで分与地を得て経済力をつけ、アイユーブ朝の頃には軍事・経済のみならず、学問の面でも十分な教育を受けた精鋭集団へと成長していたのだ。

フランス王ルイ9世による第6回十字軍を撃退したアイユーブ朝のマムルークたちは、1250年にクーデターを起こし、アイユーブ朝のスルタンを殺してマムルーク朝を創始した。これに先立ち、インドでは同じく軍事奴隷出身のアイバクが創始した奴隷王朝に始まるデリー・スルタン朝が、ゴール朝に代わって北インド一帯を支配下に収めていた。軍事を制する者が政治を制す。武力がものをいう13世紀のユーラシア大陸において、さらなる軍事勢力が北東から攻め込んできた。モンゴル軍の襲来である。

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