インドシナ半島史⑲ ~カンボジア内戦~
ベトナム戦争さなかの1970年、カンボジアで親米派のロン・ノル将軍によるクーデターが起こり、外遊中のシアヌーク殿下は国家元首の地位を解任され母国に戻れなくなった。クーデターの背後には、北ベトナム寄りのシアヌーク政権を転覆させて北ベトナム軍の南下ルート(ホーチミン・ルート)を遮断しようとする米国の意図があった。しかし指導力のないロン・ノル政権は反対勢力を弾圧して腐敗の度を強めるばかりで国民の支持は得られず、中国に亡命したシアヌークと連携したカンボジア共産党過激派のポル・ポト率いるクメール・ルージュとの間で内戦が起こった。米軍もロン・ノル政権支援のため、カンボジアに侵攻した。かつて南ベトナムで犯した失敗と同じ愚行が繰り返されたのだ。
ロン・ノル政府軍と米軍は農村や密林を拠点に戦うクメール・ルージュ軍に翻弄され、サイゴン陥落と同年の1975年、首都プノンペンが陥落。ロン・ノル将軍は追放され、民主カンプチアが建国され、ポル・ポトが首相として実権を握った。シアヌークは国家元首の地位に戻ったものの翌年、ポル・ポト派によって軟禁されてしまう。原始共産制という過激な方針を掲げるポル・ポト派は、通貨の廃止・学校教育の否定・知識人の抹殺・都市から農村への強制移住・強制労働・強制収容・反対勢力への容赦ない弾圧や拷問や虐殺など、極端な政策を次々と実行に移し、大量の犠牲者を生み出した。多くの教員が殺され、教育制度は崩壊し、廃校になった学校は刑務所に転用されて凄惨な拷問が行われた。眼鏡をかけているだけで知識人とみなされて虐殺された人々もいる。情報統制が敷かれていたため、正確な数はわからないが、ポル・ポト政権時代のわずか4年足らずの間に、100万人以上が殺されたとみられる。国土には犠牲者の白骨が山積し、その実態は後に映画「キリング・フィールド」で世界に示され、多くの人々を震撼させた。
ポル・ポトが過激な政策に走ったのは、彼自身の個人的な資質だけでなく、当時の中国の毛沢東思想への著しい傾倒のためでもあると考えられる。1950年代から60年代にかけて毛沢東の指導で強行された中国の大躍進政策や文化大革命は多くの犠牲者を生んだ大失政であったが、当時の中国共産党は都合の悪い事実をひた隠しにし、毛沢東の理論がいかに優れた実績を生んでいるかというプロパガンダに終始した。また60年代後半には中ソの対立が激しくなり、ソ連との関係を深めたベトナムに対して、中国が積極的にポル・ポト政権に肩入れしたこともあり、ポル・ポト政権の犯罪的な圧政は、その実態がほとんど外に知られることのないままに、4年近くも継続したのである。
1978年、国境争いを発端としてベトナム軍がカンボジアに侵攻。翌年には首都プノンペンを占領し、民主カンプチアは崩壊、ポル・ポト派は密林へと逃れた。新たに建国されたカンプチア人民共和国では、ベトナムの支援を受けたヘン・サムリンが国家元首となり、ベトナムをモデルとした社会主義政策を進めてカンボジアの再建を目指したが、再び北京での亡命生活に入ったシアヌークを中心とした右派、密林に潜伏したポル・ポトを中心とした左派、さらに共和制の実現を掲げる中間派のソン・サン派の三派が反ベトナム・反ヘンサムリンで団結。政府と三派連合の間で、新たな内戦が始まった。ベトナム・ソ連は政府支持、中国は三派連合支持である。ベトナムと中国の間では、カンボジア侵攻を契機として中越戦争も起こった。社会主義国陣営内での主導権争いが、ただでさえややこしいカンボジア情勢を更に複雑化させ、内戦を激化させたともいえる。
出口の見えないカンボジア内戦は、ロン・ノル将軍のクーデターから数えて20年以上続いたが、1989年の東西冷戦終結により、ようやく和平の機運が見えてきた。1991年、パリでカンボジア和平協定が成立。翌年には協定に従って国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が活動を開始し、日本人の明石康氏が事務局長に就任した。日本からも自衛隊が国連平和維持活動(PKO)の一環として派遣され、治安の維持や選挙活動の監視のため文民警察官も派遣された。こうした活動の中で日本人国連ボランティアの中田厚仁氏と高田晴行警部補が殺害されるという悲劇も起きたが、93年には予定通り総選挙が実施され、王党派のフンシンペック党が第一党、ヘン・サムリン政権の流れを継承する人民党が第二党となり、フンシンペック党首のラナリットが第一首相、人民党首のフン・センが第二首相に就任した。投票率は予想を上回る89%を記録し、新国家建設に向けたカンボジアの人々の強い思いを感じさせる結果となった。シアヌークは国家元首に返り咲き、新生カンボジア王国の国王となったのである。
カンボジアの戦争博物館に展示されている内戦当時の兵器の数々は全て米中ソなどの外国製であり、戦後も多くの被害者を出した大量の残留地雷もほとんどが外国製である。それは東西冷戦や社会主義国間の路線対立の代理戦争の場となったカンボジア内戦の悲劇を象徴しているようだ。一方で、内戦終結後のカンボジア再建に向けて、日本も含め、多くの国々からの国際的な協力があったことも確かである。学校の再建と教育システムの再構築にも、民間ボランティアを中心に、多くの人々が国境を越えて関わった。内戦の傷跡は今も残るが、その復興の過程で得られたものもまた大きいと考えれば、いくらかでも救いがあるように感じられるのだ。