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連載中国史40 明(2)

靖難の役で帝位を奪った成祖永楽帝は、1405年、側近の鄭和に南海遠征を命じた。鄭和は30年近くにわたって七度の遠征を敢行。インドのカリカット、中東のホルムズやアデン、東アフリカのマリンディなどの港市を歴訪し、明の国力を世界に知らしめた。初回の遠征では巨大艦船六十隻以上、乗組員数二万七千名にも及ぶ大艦隊を組織したという。軍事的圧力でもって、海洋での勢力範囲を拡大したわけである。アフリカ遠征ではキリンやライオンなどの珍獣が中国にもたらされた。

鄭和の南海遠征(コトバンクより)

鄭和の大遠征は、しばしば現代中国の海洋進出政策になぞらえられる。永楽帝の時代、かつてのモンゴルの脅威は減退し、帝は五度のモンゴル遠征によって、北方のタタール(韃靼)やオイラト(瓦刺)を属国とすることにも成功していた。1421年には北京に正式に遷都を行い、中央集権国家としての統治体制を固めていく。そんな中での大遠征は軍事力の誇示によって海洋での勢力範囲を拡大しようという意図に基づくものであり、現代中国の海洋進出をたとえた「真珠の首飾り」政策に通底するものだというのである。事実、鄭和の処女航海の出発日である7月11日は、現代の中国では「航海の日」と定められている。

中国の海洋進出(news.yahoo.co.jpより)

一方で永楽帝は貿易においては、洪武帝以来の海禁政策と朝貢貿易体制を強化した。すなわち民間での自由な貿易を許さず、全ての交易を国家の管理下に置こうとしたのである。朝貢貿易体制では、相手国は明に臣下の礼をとって冊封を受ける形になる。当時の日本でも室町幕府三代将軍の足利義満が永楽帝から日本国王の称号を受け、明の冊封体制下で勘合貿易を始めている。明との上下関係を認め、中国の面子を立てることで、巨大な利益が得られたわけである。これは東シナ海の沿岸地域で頻発していた倭寇による密貿易・海賊行為への対策という一面も持っていた。

勘合貿易の構造(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

鄭和の遠征に限らず、当時の明の対外政策は、現代の中国のそれに重なり合う点が多いように思われる。室町幕府の将軍義満は中国の冊封体制を受け入れて貿易で利益を得たが、次の将軍の義持はそれを屈辱外交として退け、勘合貿易を中断した。いずれにせよ、大国志向を強める隣国にどう対応するかが、当時の日本でも重要な政策課題になっていたことは確かだろう。

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