連載中国史32 宋(2)
宋では財政難に加えて、新興地主である形勢戸の台頭による貧富格差の拡大が社会不安をもたらしていた。神宗皇帝のもとで宰相に抜擢された王安石は社会の安定と富国強兵を目指し、「新法」と呼ばれる一連の改革を矢継ぎ早に実施した。農民や中小商人への低利の融資である青苗法や市易法は、高利貸しから彼らを救済するための施策であった。各地の産物を政府が買い上げて流通させる均輸法は大商人の中間搾取を抑えて物価の安定を図るものであったし、募役法では免役銭によって各戸の労役義務を免除し、それを財源にして労務者を雇用することで、中小農民の負担軽減と失業対策の一石二鳥を狙った。いずれも中小の農民や商人を保護し、格差拡大による社会不安を抑えるための政策であったと言える。
一方、国家財政を圧迫していた軍事費の増大に対しては、保甲法によって農閑期の農民に軍事訓練を施して傭兵費を削減したり、保馬法によって平時の農耕馬を戦時の軍馬に転用することで飼育費を削減し支出の抑制に努めた。官僚組織の再編合理化にも手をつけている。すなわち、政府主導でのリストラを行ったわけである。
王安石をリーダーとする新法党の急激な改革に対して、歴史書「資治通鑑」の編者としても有名な司馬光を首領に戴く旧法党からの激しい反発が起こった。政府主導での強引な金融・雇用政策は、既得権益層のみならず、民業を広く圧迫し、かえって社会不安を増大させるというのである。神宗が存命のうちは新法党が優勢であったが、神宗没後は旧法党が優勢となる。やがて両党の指導者である王安石と司馬光が相次いで死去し、両派の争いは泥沼化し宋の政治はさらに混迷を深めることとなるのである。
王安石の描いた改革のビジョンは明確であったが、あまりに性急に事を運びすぎた感は否めない。一方、司馬光の新法批判も的を射たものが多かったが、両派の対立を深めたことで結果として政権の安定を損なってしまった。何よりの誤算は、両派の指導者が早世したことで、混乱の収拾が付かなくなってしまったことだろう。性急すぎる改革は実を結ばないこと、指導者たる者は自分がいなくなった後のことも考えておかねばならないこと。王安石と司馬光の対立が残した教訓は、現在にも生きていると思われるのである。