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連載日本史222 関東大震災

1923年9月1日、関東地方南部を中心とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。昼食時の火を使っていた時間帯であったために、東京・横浜・横須賀などで大火災が起こり、電気・水道などのライフラインは断絶し、社会は大混乱に陥った。両国の陸軍被服廠跡の広大な空地に集まった40,000人の避難民のうち、約38,000人が火災に巻き込まれて焼死したという。震災による死者・行方不明者は10万人を超え、300万人以上が罹災し、30万戸以上の家屋が全壊・焼失した。

震災直後の横浜市中心部(Wikipediaより)

震災直後の不安から、さまざまな流言が飛び交った。「混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こす」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」等、多くが「朝鮮人」を主語にした、根も葉もない噂だった。噂自体には根も葉もないが、それを信じて拡散する人々の心には、偏見の根がはびこっている。自分たちが植民地の朝鮮の民衆を圧迫しているという後ろめたさや、欧米へのコンプレックスへの裏返しであるアジア民族への蔑視、大戦景気の労働力不足で大陸から招き入れた朝鮮人に戦後不況で仕事を奪われているという不満、いつか彼らに仕返しをされるのではないかという猜疑心など、平時ではおそらく潜在意識の奥に隠れていたはずの歪みが、大災害の混乱の中で顕在化したのだ。

震災から二日後、伝聞や憶測で書かれた新聞記事(www.bo-sai.co.jpより)

折悪しく、震災の八日前に加藤友三郎首相が病死しており、震災当時は首相不在の状況にあった。翌日、山本権兵衛に組閣命令が下り、戒厳令が発布された。これもまた、流言が事実であるとの印象を人々に与え、不安を煽る一因となった。疑心暗鬼に駆られた人々は、竹槍や日本刀や銃で武装し、各地で自警団を結成して朝鮮人を襲撃し始めた。朝鮮人と間違われて殺害された日本人や中国人もいた。当初は流言を否定していた警察も、その大規模な拡散からこれを信じてしまい、新聞も誤った情報を拡散させた。犠牲者の正確な数は不明だが、複数の調査報告を突き合わせてみると、数千人に上ることは確かだろう。また、この機に乗じて社会主義者や無政府主義者を抹殺してしまおうという動きもあり、10名の社会主義者が殺された亀戸事件、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝らが憲兵隊の甘粕正彦大尉に殺害された甘粕事件などが起こった。

甘粕事件を報じた新聞記事(Wikipediaより)

もちろん日本人の中には、朝鮮人をかくまった人々や、自警団の暴発から朝鮮人たちを守った警察署長らもいた。詩人の萩原朔太郎は虐殺に対する怒りを作品にして発表したし、芥川龍之介も「善良なる市民」という表現で自らも含めた当時の大衆を皮肉るとともに、「況や殺戮を喜ぶなどは」と人間の情けなさを嘆いている。だが、こうした動きは相対的に少数派であり、震災時の虐殺の事実は、「仕方のなかったこと」として、隠蔽されたり矮小化されたりする場合が多かった。そういう理由もあって、正確な犠牲者数がわからないのである。

当時の小学生が描いた震災直後の朝鮮人迫害の様子(kouraihakubutsukan.orgより)

加藤直樹氏の著書「九月、東京の路上で」には、関東大震災直後の朝鮮人虐殺について、当時の証言や資料を丁寧に検証した詳細なルポルタージュがまとめられている。そこから見えてくる光景には、昨今のヘイトスピーチや排外主義的言説の流布と通底する要素が多分にある。関東大震災の惨劇は、決して単なる過去の話ではないのだ。

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