連載日本史188 明治初期の外交(2)
1875年、朝鮮の首府・漢城(ソウル)の北西海岸にある江華島沖で海洋測量中の日本軍艦が砲撃を受ける事件が起こった。江華島事件である。いきなり砲撃を仕掛けるのは言語道断だが、そもそも何故、わざわざ朝鮮近海で日本軍艦が測量を行う必要があったのだろうか。
朝鮮との国交樹立は、中国やロシアとの国境確定問題を抱える日本にとって大きな外交課題であったが、その交渉は難航していた。朝鮮近海への軍艦派遣は、ちょうどその時期に行われたものであり、威嚇あるいは挑発行為と言ってもいい。事実、この事件の後、砲撃の責任を朝鮮政府に迫る形で、日本は交渉を有利に進めた。年末には黒田清隆が朝鮮に派遣され、朝鮮政府から江華島事件への謝罪を引き出し、翌年には日朝修好条規の締結に至った。これは釜山・仁川・元山の開港と日本の領事裁判権を認めたもので、更にその後、日本は関税免除の特権を得た。かつて欧米の圧力で自らが締結させられた不平等条約を、そっくりそのまま朝鮮に対して強要したのである。節操がないと言われても仕方がない。
ロシアとの国境確定問題については、1875年に駐露大使の榎本武揚と外相ゴルチャコフの間で、樺太・千島交換条約が調印された。この条約により、江戸時代に結ばれた日露和親条約では両国民の雑居地とされていた樺太(サハリン)はロシア領土、北方四島を含む得撫島や占守島などの千島列島は日本領土となった。現在では北方四島の返還問題が両国の外交課題になっているが、明治初期にはカムチャツカ半島の先端近くにまで至る千島列島18島が全て日本領土だったのだ。また、翌年には、米・英に対して小笠原諸島の領有を宣言している。一方、薩摩藩の支配を受けていた琉球では、1872年に琉球王朝の尚泰を藩王とした琉球藩が設置されたが、1879年に琉球処分として尚泰が東京に召喚され、琉球藩を廃して沖縄県が設置された。だが、県政では旧慣温存策がとられ、沖縄は本土との格差に苦しむことになる。宮古・八重山では20世紀初頭まで人頭税が残り、沖縄県民は国政選挙にも1912年まで参加できなかったという。
近代国家としての日本の初期外交課題であった近隣諸国との国交樹立や国境確定は、平和理に実現したものもあったが、武力を背景に力ずくで押し切ったものもあった。樺太・千島や小笠原諸島は前者の例であり、江華島事件・日朝修好条規や台湾出兵は後者の例である。特に対朝鮮外交について、近代初期の段階で強引な手法をとったことは、その後の日朝関係に負のスパイラルを生む端緒になっていくのである。