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連載中国史29 唐(6)

八世紀後半、いわゆる中唐の時代に入ると、唐の求心力は徐々に低下した。律令体制を支えた均田制は、私有地である荘園の拡大によって実施が困難となり、税制においても貨幣経済の進行とともに租調庸制が崩れ、780年には徳宗のもとで物納と銭納の二本立てである両税法が施行された。軍事面では均田農民の没落によって府兵制が維持できなくなり、募兵制が採用された。また、北のウイグル、西の吐蕃(チベット)、南の南詔など、周辺異民族の脅威に備えて設置された節度使は、安史の乱の後も勢力を強め、中央から自立して藩鎮と呼ばれるようになった。つまり、集権から分権へ、公有から私有へと、政治経済体制が徐々にシフトしていったのだ。

黄巣(WIkipediaより)

それでも九世紀半ば頃までは、唐も何とか従来の大帝国の体裁を維持していた。唐王朝が滅亡へ向けて大きく傾く契機になったのは、875年に起こった黄巣の乱である。黄巣は塩の闇商人であった。財政難のため安史の乱以降に復活した塩の専売により、塩価は原価の数十倍にまで高騰していた。飢饉も重なり、苦しんだ民衆は反乱軍に身を投じ、戦乱は10年近くに及んだ。王朝は完全に求心力を失い、907年、節度使の朱全忠によって、290年にわたって東アジアに君臨した大唐帝国の歴史に終止符が打たれたのである。

朱全忠(WIkipediaより)

唐における律令制崩壊の過程は、日本の古代史における律令制崩壊の過程と軌を一にしている。共通するのは集権から分権、公有から私有への大きな流れである。もちろん、その後には混乱の時代を経て、再び中央集権への動きが強まるわけで、そういう意味では、歴史は大きく振り子のように、往還運動を続けているのかもしれない。唐王朝の滅亡後、中国は再び分裂の時代を迎えることになるのである。

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