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連載中国史17 漢(3)

漢の王位を簒奪した外戚の王莽は、国号を新と称した。周代の政治を理想とした王莽は、現実を無視した復古政治を行い、対外的にも極端な華夷思想によって周辺異民族を見下す外交を行ったため、内外からの反発を招いた。新建国から10年も経たないうちに起こった反乱は全国に拡大した。反乱軍は敵味方の区別をつけるために眉を赤く塗ったため、これを赤眉の乱という。紀元23年に王莽は殺され、しばらく混乱が続いたが、25年には光武帝劉秀が即位し、漢王朝を再興した。これにより、高祖劉邦の建国から王莽の帝位簒奪までの200年強を前漢、光武帝による再興から王朝滅亡までの200年弱を後漢と呼ぶ。

光武帝(Wikipediaより)

前漢が秦の政治体制を換骨奪胎した中央集権型の王朝であったのに対し、後漢は各地の豪族の連合政権的要素が強かった。光武帝は首都を洛陽に移し、自らの支持基盤である江南地方の豪族たちを重用して政権中枢を構成した。豪族たちは、中央では官僚・政治家・軍人として、地方では大土地経営者として権力をふるったのである。

後漢の版図(帝国書院「最新世界史図説タペストリー」より)

後漢は硬軟とりまぜた対外政策をとった。北方では匈奴の内部対立を利用し南匈奴を懐柔しながら北匈奴を征討した。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との名言を残し、対匈奴戦で活躍した班超は、西域都護となって、97年には部下の甘英を遠く大秦(ローマ)にまで派遣した。班超の積極的な西方進出によって、シルクロードの端緒が開かれたのだ。166年には大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が日南郡に到着している。

東方では朝鮮半島の高句麗と三韓(馬韓・辰韓・弁韓)、更に倭国(日本)もこぞって漢に帰属した。中国を中心とした東アジアの国際秩序は「冊封(さくほう)」と呼ばれた。それは、周辺諸国から漢への朝貢と、それに対する見返りとしての漢からの爵位で成り立つ縦の秩序であった。膝を屈してでも、大国としての中国の後ろ盾を得ることは、周辺諸国にとって大きなメリットとみなされたのだ。「後漢書」東夷伝には、紀元57年に倭の奴国から朝貢を受けた光武帝が使者に金印を授けたとの記述があり、その金印が実際に福岡で発見されている。

漢委奴国王金印(Wikipediaより)

中華思想とは、東夷・西戎・南蛮・北狄という呼称からもわかるように、周辺の異民族を見下す自文化中心主義(エスノセントリズム)にほかならないが、進んでそれを受け入れることで現実的な利益を得ようとした周辺諸国の思惑も、その強化に一役買っていたように思われる。現代においても、他国への経済的・軍事的影響力を強めようとする中国と、そこから利益を引き出そうとする諸国との間に、そうした思考の片鱗が復活しつつあるようにも感じられるのである。
 

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