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ローマ・イタリア史㉖ ~リソルジメント~ 

18世紀末、フランス総裁政府に任じられたナポレオンのイタリア遠征は、長らく分裂状態にあったイタリアに民族意識と統一への機運をもたらした。オーストリア・サルディーニャ連合軍を破ったナポレオンはカンポ=フォルミオの和約で北イタリアを獲得、その交換条件としてオーストリアはヴェネチアを得た。ミラノに続いてジェノヴァも支配下に収めたナポレオンは皇帝となった翌年の1805年にミラノを首都としたイタリア王国を樹立して自ら国王となり、さらにローマやナポリにも版図を拡大し、息子にローマ王、兄にナポリ王の称号を与えた。ナポレオンはフランス革命由来の自由と平等の精神をイタリアに広げたが、フランス語を公用語とするなどの帝国主義的政策を進めたことでイタリア住民の強い反発を招き、結果的にイタリアの統合独立への動きに火をつけることとなったのである。

ナポレオン失脚後のウィーン体制によって、再びイタリア半島はオーストリアの支配を受けることになるが、ひとたび火のついた民族意識と統合独立への機運は衰えることがなかった。1820年代の民族主義結社カルボナリの蜂起はオーストリア軍によって鎮圧されたが、フランス七月革命の影響を受けて30年代にはマッツィーニが青年イタリアを結成し、統一への明確な方針を掲げて「リソルジメント」と呼ばれるイタリア統一運動を開始した。マッツィーニの急進的な運動自体は挫折し、彼は亡命を余儀なくされたが、1848年、欧州全域で起こったウィーン体制打破の反乱の口火を切ったのはイタリアだった。シチリアのパレルモで起きた反乱はイタリア各地に飛び火し、ミラノとヴェネチアでは市民が蜂起して共和政を宣言した。サルディーニャ王国は両都市を支援してオーストリアに宣戦布告したが、ラデツキー将軍らに指揮されたオーストリア軍に敗れた。翌年にはローマ市民が亡命先からマッツィーニを迎えてローマ共和国を成立させたが、フランスのルイ=ナポレオンの介入によって瓦解した。

1850年代に入ると、統一運動の中心はサルディーニャ王国へと移った。国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとで首相となったカヴールは外交手腕を駆使し、53年から始まったクリミア戦争にフランス側で参戦してナポレオン3世と通じ、戦後の密約を得てフランスと同盟し、1859年にオーストリアに再戦を挑んだ。戦況は有利に展開したものの、ナポレオン3世がオーストリアと単独講和を結んだために、サルディーニャはロンバルディアを獲得しただけにとどまり、ヴェネチアなどはオーストリアの支配下に残された。翌年、フランスとの関係を回復させたカヴールは中部イタリアで住民投票を実施し、サルディーニャ王国への併合を承認させる。一方、サヴォイアとニースは住民投票の結果、フランスに帰属することとなった。

北イタリアでサルディーニャ王国主導の統一への動きが進む一方、南イタリアでは青年イタリア出身のガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)の軍事行動による統一運動が起こっていた。1860年、シチリアを占領したガリバルディはナポリに入城し、両シチリア王国をブルボン家の支配から解放した。同年にシチリアと南イタリアで行われた住民投票では圧倒的多数がサルディーニャ王国への帰属を支持。カヴールの仲介でガリバルディとヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の会見が実現し、ガリバルディがシチリアと南イタリアのサルディーニャ王への寄進を表明。ここにサルディーニャ王国主導のイタリア再統一の骨格が固まったのである。

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