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連載日本史158 天保の改革(3)

天保の改革は失敗に終わったが、同時期に行われた諸藩の改革では、一定の成功を収めた例が随所に見られた。水戸藩では藩主徳川斉昭が農村復興や軍事力強化に努めるとともに、藤田東湖や会沢安などの学者を登用し、光圀以来の一大事業である「大日本史」の編纂作業を急いだ。藩校の弘道館で展開された水戸学では、尊王思想と攘夷思想が中心となった。徳川御三家のひとつである水戸藩から倒幕の中心思想となる尊王攘夷論が広まったのは、歴史の皮肉と言うほかない。

徳川斉昭(rekishi-ch.jpより)

藩政改革に成功したのは、多くが外様の大名であった。長州藩では村田清風を中心に、紙や蠟(ろう)の専売制を整備し、下関に越荷方を設けて藩営の金融業や委託販売に乗り出し、有能な下級武士を積極的に登用して洋式軍備を整えた。肥前(佐賀)藩では藩主鍋島直正の指揮の下、均田制を採用して本百姓体制の再建を図る一方で、陶磁器や石炭の専売を行い、反射炉や大砲製造所を建設し、国産初の鉄製大砲の生産にこぎつけた。土佐藩では藩主山内豊照(とよてる)が改革派の家臣を積極的に登用し、財政改革には失敗したものの、木材や紙の専売で利益を上げた。薩摩藩では調所(ずしょ)広郷を中心として、奄美大島・徳之島・喜界島の黒砂糖の専売を強化し、琉球貿易における俵物の密貿易でも利益を上げ、藩の抱えていた巨額の負債を半減させることに成功した。藩主島津斉彬の別邸には、反射炉・機械工場・紡績工場などからなる洋式工場群の集成館が建設されている。

旧集成館機械工場(九州の世界遺産HPより)

こうした藩政改革に共通するのは、強力なリーダーシップと、地域経済の核になる商品作物の存在である。天保の改革が従来の米作中心の農本経済体制維持に執着したのに対し、これらの諸藩は商品経済拡大の波に乗って利益を上げ、経済力と軍事力を高めていった。一方、その陰には、薩摩藩の利益のために砂糖の単一栽培(モノカルチャー)を強要されて飢餓に苦しんだ南西諸島の島々のように、後の植民地経済の端緒となるような現象が見られたのも事実である。ともあれ、幕政改革の失敗と藩政改革の成功のコントラストは、その後の運命を暗示するかのようであった。事実、藩政改革で力をつけた薩長土肥の四藩が、倒幕の原動力となっていくのである。

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