連載日本史129 江戸幕府(4)
江戸幕府は、朝廷や寺社に対しても、管理体制を強めた。朝廷の監督統制のために京都所司代を置き、1615年には、禁中並公家諸法度を制定して、官位や改元などについての規定を定めた。朝廷内では、所司代との連絡係である武家伝奏を通じて摂家や公家への指示が行われ、朝廷の動きについての報告が求められた。直接支配ではないものの、天皇家に対する強固な管理統制の枠組を示したと言えよう。
一方で幕府は朝廷との融和にも努めた。二代将軍秀忠の娘の和子(東福門院)は後水尾天皇の女御として入内し後の明正天皇を生んで中宮となっている。1623年には、秀忠から家光への将軍職移譲に伴い、二人が揃って上洛して二条城に天皇の行幸を仰ぎ、幕府と朝廷の良好な関係を内外に向けてアピールした。
幕府と朝廷の関係に緊張が走ったのは、1627年に起こった紫衣事件の時である。紫衣(しえ)とは、高徳の僧尼に朝廷が勅許する最高の法衣だが、幕府は大徳寺や妙心寺への紫衣勅許を、禁中並公家諸法度に反するとして認めなかった。これに抗議した大徳寺の沢庵宗彭らは流罪となり、後水尾天皇は抗議の意思を示すために皇女に譲位し、女帝の明正天皇が即位した。幕府と朝廷の力関係を印象づけた事件であった。
寺社に対しても、幕府はアメとムチを使い分けた。17世紀初頭には何度かにわたって寺院法度を出し、宗派ごとに本山を確定して、その下に末寺を組織させる本末制度を整えている。1635年には寺社奉行を設置し、神社への統制も併せて行った。これらの国家による宗教統制の最たるものがキリスト教の禁止と徹底した弾圧であり、それは激しい抵抗と流血の惨事を引き起こすことになったのである。
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