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バルカン半島史㉙ ~ユーゴスラビア紛争~

自主管理社会主義と呼ばれた独自路線をとり、他の東欧諸国よりも相対的に豊かであったユーゴスラビアにも、冷戦終結に伴う東欧革命の激動の影響は及んだ。連邦制を維持しようとするセルビア・モンテネグロに対し、スロべニアとクロアチアは独立国家連合体への移行を主張し、1991年には分離独立を宣言した。かつてオーストリア・ハンガリー帝国の支配下で経済的に先進地域であった両国にはもともと西欧志向が強く、さらに冷戦終結後の民族主義の昂揚が双方の対立に拍車をかけたのだ。続いてマケドニア、翌年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナも独立を宣言。一方、セルビア・モンテネグロは新ユーゴスラビア連邦を結成して対抗した。しかしながら歴史的に多くの民族が混在したバルカン半島では、各共和国の民族構成は単一ではあり得ず、ボスニア=ヘルツェゴヴィナに至ってはセルビア人・クロアチア人・ムスリムの三勢力が均衡しており、多数派自体が存在していなかったのである。

セルビアのミロシェビッチ政権の支持を受けたボスニア内セルビア人勢力は独自にボスニア=ヘルツェゴヴィナ=セルビア人共和国の独立を宣言。クロアチア人勢力とムスリムに対抗して三つ巴の内戦が始まった。カトリック・東方正教・イスラムという宗教の違いも対立を深刻化させた。メディアではセルビア側の残虐行為がクローズアップされる傾向が強かったが、実際にはクロアチア側にもムスリム側にも残虐行為は見られたという。かつてのボスニアは、民族や宗教の違いを抱えながらも共生を実現してきたはずの地域であった。だが、ひとたび内戦が始まると、憎悪が憎悪を呼ぶ悪循環に陥り、凄惨な殺し合いの場となってしまったのだ。

歴史的な経緯からセルビア側を支持するロシア、クロアチア側を支持する欧米諸国、ムスリムを支持するイスラム諸国、それぞれの思惑もあり、国際社会の足並みも乱れていた。泥沼化する内戦を前に国連による調停は難航し、1995年、とうとうNATOが独自の空爆による介入に踏み切った。外からの武力介入による強引な解決は新たな犠牲を生んだが、空爆によって大きな打撃を被ったセルビア側が譲歩し、1995年末にボスニア=ヘルツェゴヴィナ和平合意が成立。3年半に及んだ内戦は、ようやく終結をみたのであった。

内戦後に明らかになったのは、それぞれの勢力による凄惨な虐殺の応酬であった。ボスニアの首都サラエボをはじめ、各地にその傷跡が残る。内戦の被災者と難民の総数は250万近くに及ぶという。繰り返すようだが、それらの人々は、内戦前には隣人として共生していたはずの人々なのだ。

偏狭な民族主義は憎悪の連鎖を呼ぶ。しかし、だからといって民族を超えたコスモポリタリズム(世界市民主義)は容易には実現しないだろう。良くも悪くも、自らを育んだ文化や言語や宗教や風土を離れた個人のアイデンティティはあり得ない。それぞれが自らの根ざす土壌としての民族文化を大切にしながら、同じように他の人々の根ざす民族文化をも尊重できれば良いのだが……。

1990年のサッカーW杯で分裂前の最後のユーゴスラビア代表監督を務め、その後、日本代表監督としても大きな足跡を残したイビチャ・オシム氏は、自らを評して「私は何人でもない。サラエボっ子だ」と語る。そこには、偏狭な民族主義には与しないという矜持と、かつて多くの民族が共生していた祖国への愛着と誇りが感じられる。彼の数ある名言の中に「相手をリスペクトするのが負けない秘訣だ」「一番大事なのは指導者が自分のチームの選手を尊敬すること、それから相手選手を尊敬することを選手に教えることだ」という言葉がある。これはサッカーについて述べた言葉ではあるが、全ての物事について語られているようにも感じられる。内戦の惨禍を背景に持つ彼の言葉は、バルカン半島のみならず、日本も含めた全世界に響く重みを持った言葉だと思われるのだ。

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