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オリエント・中東史㊲ ~エジプト革命とスエズ戦争~

第一次中東戦争の敗北とイスラエルの領土拡張は、アラブ諸国に大きな衝撃をもたらした。エジプトでは王政打倒の声が高まり、1952年にナギブとナセルが率いる自由将校団が国王を追放して革命を成就し、エジプト共和国を樹立した。王政を廃止した革命政府は、農地改革法などの社会改革を進めた。初代大統領は穏健派のナギブだったが2年後には急進派のナセルがナギブを追放して大統領に就任し、1955年にはインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議に出席してインドのネルー、ユーゴスラビアのチトー、インドネシアのスカルノ、中国の周恩来と並んで、第三世界のリーダーの一人と目されるようになった。翌年、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言。そこから得られる利益で、ナイル川上流にアスワンハイダムを建設すると発表した。しかしそれは、運河の利権を確保したいイギリスにとっては受け入れ難い話であった。

1956年10月、イギリスは更なる領土拡大の意図を持つイスラエルを動かしてエジプトに侵攻させ、シナイ半島を一気に制圧。さらにフランスとも共謀してスエズ地域にも侵攻した。スエズ戦争とも呼ばれた第二次中東戦争の始まりである。フランスが加わったのは、仏領アルジェリアでの独立戦争の背後にナセルがいると考えたからである。中東を巡る英仏両国の利権確保のための武力介入が、またも繰り返されたわけだ。

英仏イスラエル軍の侵略行動は国際社会からの批判にさらされた。エジプトを支持する第三世界諸国はもとより、ソ連も英仏を強く非難してミサイル攻撃も辞さないと警告。そして英仏と関係の深い米国までもが、国連安全保障理事会で、イスラエル軍の即時撤兵を求める決議案を提出した。英仏が拒否権を行使して安保理の機能が麻痺すると、米国は1950年に採択された「平和のための結集」決議を利用して緊急特別総会の開催を求め、総会での停戦・撤兵決議案の採択に成功した。二つの大戦の教訓をふまえた多国間主義による国際紛争の解決という国連の原則が機能した瞬間であった。

戦闘では敗れたが国際世論を味方につけてスエズ運河の国有化を成功させたナセルは、一躍、「アラブの英雄」となった。彼の政治路線は、冷戦下の東西陣営のどちらにも属さない非同盟主義、アラブ民族の統合を目指す汎アラブ民族主義、基幹産業や公共資本を国有化して上からの近代化を図る独自の社会主義の3点に集約される。一方で彼は国内のイスラム原理主義派であるムスリム同胞団などによる反体制運動を厳しく取り締まった。

1958年にはナセルの指導下でエジプトとシリアによるアラブ連合共和国が成立。1961年にはチトーやネルーと共にベオグラードでの非同盟諸国首脳会議を開催し、第三世界のリーダーとしての存在感を強めた。だがアラブ諸国の統合は思うように進まず、やがてシリアがアラブ連合共和国から離脱。さらに1967年、イスラエルの奇襲攻撃によって始まった第三次中東戦争により、エジプトは大きな打撃を被ることになる。それはナセルの影響力の低下を決定づけ、さらなる難民を生み出すことになる不毛な戦いであった。

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