連載日本史⑮ 大和政権(1)

「大和」と書いて「ヤマト」と読む。見慣れた文字だから違和感はないものの改めて考えてみると不思議な読み方である。なぜ、「ヤマト」は「大和」なのだろうか?

大和政権の勢力範囲(katekyo.mynavi.jpより)

かなり古くから、奈良の地は「ヤマト」と呼びならわされていたらしい。語源には諸説あるが、何らかの形で「山(ヤマ)」に関係していたと思われる。奈良盆地は周囲を山で囲まれている。あらゆる自然物に霊魂の存在を見出す古代日本のアニミズムのもとで、山は神々の集う場として神聖視されていたことだろう。ここに本拠を置いたのが「ヤマト政権」である。中国では日本は「倭国」と呼びならわされており、最初は「ヤマト」に「倭」または「大倭」の文字を当てたらしい。ただ「倭」は中国での表記であり「弱々しい」という意味を持つ文字であったため、八世紀初頭に「倭」と同音の「和」を用いて「大和」と表記するようになったそうだ。

氏姓制度(katekyo.mynavi.jpより)

初期の大和政権は豪族たちの緩やかな連合体であったと考えられる。天皇=大王(おおきみ)は連合の盟主ではあったが圧倒的な権力を持っていたわけではないだろう。豪族たちは血縁集団として葛城・平群・蘇我・物部・大伴・中臣などの氏(うじ)を持ち、大王から政治的地位や職掌によって臣(おみ)・連(むらじ)などの姓(かばね)を与えられた。いわゆる氏姓制度である。大王に次ぐ中央の有力豪族は大臣(おおおみ)、地方の有力豪族は大連(おおむらじ)、豪族の私有民は部曲(かきべ)、私有地は田荘(たどころ)と呼ばれた。つまり民や土地は豪族のものであって、国家のものではなかったのだ。

岡山県真庭市の白猪屯倉跡碑(Wikipediaより)

もちろん、天皇=大王家の直轄地も各地にあり、屯倉(みやけ)と呼ばれていた。屯倉の管理は地方豪族である国造(くみのみやつこ)たちに任されていたが、527年、筑紫(福岡)の国造である磐井が反乱を起こす。その平定を機として大和政権は更に地方支配を強化した。九州勢力は完全に大和政権下に組み入れられたのである。

権力の集中が進むと権力内部での主導権争いが発生するのは世の常である。大和政権内のパワーゲームの第一幕は、蘇我氏vs物部氏の争いであった。




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