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インド史⑦ ~イスラム勢力のインド進出~

7世紀初めにアラビア半島で興ったイスラム教は短期間の間に中東から北アフリカや西アジアに広まり、8世紀にはインドにも波及した。711年にウマイヤ朝の遠征軍がインダス川下流域のシンド地方に侵攻し、翌年にはシンド王を戦死させて当地を征服したのである。ただし、当時は北インドに割拠していたラージプート諸侯に阻まれ、それ以上の侵攻はままならなかった。イスラム勢力のインド進出が本格化するのは、10世紀後半にアフガニスタン地域を支配したガズナ朝のインド侵入以降である。

ガズナ朝の全盛期をもたらしたマフムードは、10世紀末から11世紀にかけてアフガニスタンやイラン地域を平定し、カイバル峠を越えてインドのパンジャブ地方に侵入した。だが、彼の遠征は専ら略奪のためであり、インドの支配をもくろんだものではなかったようである。12世紀にガズナ朝が西方のセルジューク朝からの圧迫を受けて衰えると、今度はアフガニスタン中部に興ったゴール朝がガズナ朝を滅ぼし、インドに進出した。ゴール朝最盛期の王であるムハンマドは、パンジャブ地方を平定した後、インドでのイスラム布教に努め、13世紀初頭にはベンガル地方のパール朝を滅ぼして北インド全域に支配を広げた。ムハンマドの侵攻の際にナーランダー僧院は破壊され、ヒンドゥー教に押され気味であったインド仏教は、イスラム教からの圧迫も受けて、壊滅的な打撃を被ったのである。

ムハンマドはインドの支配を部下のアイバクに任せて自らは本拠地のアフガニスタンに戻ったが暗殺され、混乱に陥ったゴール朝は1215年に中央アジアの新興国であるホラズムによって滅ぼされる。一方、インドに残ったアイバクは1206年に奴隷王朝を建てて自立した。奴隷王朝とはアイバクがゴール朝の奴隷兵士であったことからついた呼称である。彼はデリーに都を置き、奴隷王朝はインド初のイスラム王朝となった。その後、奴隷王朝は13世紀のユーラシア大陸を席巻したモンゴル勢力のチャガタイ・ハン国やイル・ハン国の侵攻を受けて混乱し1290年に滅亡するが、その後を受けて、ハルジー朝・トゥグルク朝・サイード朝・ロディー朝と、デリーを都としたイスラム王朝が16世紀まで続いた。奴隷王朝も含め、これら五つの王朝を総称して、デリー・スルタン朝と呼ぶ。

14世紀半ばのトゥグルク朝時代にはモロッコの大旅行家であるイブン・バットゥータがインドを訪れ、当時のインドの様子を「三大陸周遊記」に書き残している。トゥグルク朝末期の14世紀末には、中央アジアから西アジアにかけて広大な領土を征服しティムール朝を創始したモンゴル・トルコ系の武将ティムールがインドにも侵攻した。ティムールはすぐに引き上げたものの、その影響力は長くインドに残った。16世紀にはティムールの子孫を自称するバーブルがアフガニスタンから北インドに侵入し、1526年のパーニーパットの戦いで、デリー・スルタン朝最後の王朝であるロディー朝を破って北インドを制圧。デリーを都としてムガル帝国を樹立するのである。

最終的には大帝国を樹立するまでに至ったイスラム勢力のインド進出と対照的なのは、インド仏教の衰退である。そもそも東南アジアや中国・朝鮮・日本に至るまで広く影響を及ぼした仏教が、なぜ西には伝わらなかったのだろうか? 当時の西方の大国ササン朝ペルシアにおけるゾロアスター教の隆盛や、西方世界におけるユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教の拡大、中東の乾燥した気候風土と仏教思想の相性の悪さなど、さまざまな原因が考えられるが、それにしても歴史地図における仏教の拡大の軌跡を見ると東西の非対称性は激しすぎる。インドを席巻したイスラム教が、その後さらに東南アジアまで勢力を伸ばしたことを考え合わせると、そこには未だ解明されていない歴史の謎が潜んでいるようで興味深い。

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