インド史⑪ ~インド大反乱~
18世紀後半から19世紀にかけて、デカン高原のマラーター同盟や南インドのマイソール王国との戦争に勝利し、インド中南部にも支配を広げたイギリスは、北西部のパンジャブ地方でムガル帝国から自立していたシク王国にも戦争を仕掛けた。アフガニスタンやイラン地域へのロシアの南下を警戒し、隣接するパンジャブ地方を傘下に収めようとしたのである。
ここでも勝利を収めたイギリスは、パンジャブ地方を直接統治下に置き、パンジャブ北方の山岳地帯であるカシミールにはヒンドゥー教徒の藩王を置いて間接統治を行った。カシミールの住民は八割がイスラム教徒なのだが、あえてヒンドゥー教の藩王を置くことで分断を引き起こしたのだ。これはイギリスの植民地支配の常套手段であり、民族や宗教の違いをことさら際立たせることで、現地の住民同士を対立させて分割支配を謀るものである。これが後に世界各地で負の遺産としての民族・宗教対立を引き起こすのだが、インド・パキスタンにおいても、カシミール問題は現代にまで禍根を残す深刻な問題になってしまった。
パンジャブ地方制圧により、インド全域を支配下に収めたイギリスであったが、インド民衆の不満も沸点に達しつつあった。イギリスがインドに覇権を確立したプラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年、シパーヒーと呼ばれた東インド会社のインド人傭兵たちが反乱を起こした。彼らに支給された銃の薬莢にはヒンドゥー教で聖なる存在とされていた牛の脂や、イスラム教で不浄とされていた豚の脂が塗ってあり、それが彼らの信仰への冒瀆だと猛反発を受けたのである。もちろん、その底には長年にわたる英国の植民地支配への鬱積した不満があった。反乱はたちまち一般民衆にも広まり、ヒンドゥー教徒とムスリムの両方を巻き込んで北インド全域に拡大した。反乱軍は既に名目的な存在になっていたムガル帝国の皇帝を担ぎ出し、デリーに臨時政権を樹立した。英国によって取り潰しの憂き目にあった各地の藩王国も反乱に加わり、インド全域でイギリスへの反旗が翻ったのだ。
予想外の大規模な反乱に驚いたイギリスは、インド駐留軍に加えて中国やイランに展開していた軍をもインドに集結させ、シク教徒やネパールのグルカ兵などの手も借りて鎮圧にあたった。近代的装備にまさる英軍はデリーを陥落させ、最後のムガル皇帝バハドゥール・シャー2世を捕らえて英領ビルマに流刑にした。これによって、16世紀以来300年以上にわたって続いたムガル帝国は完全に滅亡したのである。
反乱の鎮圧後、イギリスは東インド会社を通じた間接支配に限界を覚えたことに加えて、本国での資本主義の発達によって自由貿易を望む声が高まったこともあり、1858年に東インド会社を解散させ、本国から総督・官僚・軍隊を派遣して直接統治する形態に切り替えた。反乱の責任を東インド会社にかぶせ、英国の統治体制を一層強化するという、いわば「焼け太り」政策である。さらに1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド皇帝を兼任するという形でインド帝国が樹立された。19世紀から20世紀にかけて、インド帝国は綿花・茶・アヘンなど、麻薬を含む商品作物の供給地として特化され、イギリス植民地帝国主義の最重要基盤として本国への徹底した従属を強いられていくのである。
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