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ローマ・イタリア史⑰ ~中世キリスト教社会の変質~

中世キリスト教思想の精神的基盤を築き、ローマ教会の理念を確立させたのは、西ローマ帝国末期に活躍し、「教父」と呼ばれたアウグスティヌスであった。彼は世俗の権力を超越する「神の国」を現出させる存在として教会を位置づけ、その理論は後世の神学の礎となった。西ローマ帝国の滅亡後も、ローマ教会が宗教的権威の象徴として命脈を保ったのは、彼の功績によるところが大きいであろう。

しかし時代が下り、世俗権力との結びつきを強め、自らも領地や財産を持つようになったローマ教会は、次第に純粋な信仰から離れて変質していった。9世紀にはフランク王国のカール大帝、10世紀には東フランク王国のオットー1世への戴冠(神聖ローマ帝国の発端)を通じて権力の庇護を求め、聖職売買などにも手を染めるようになったのである。もちろん教会内部からの改革を求める声もあり、古くは6世紀のベネディクトゥスから10世紀のクリュニー修道院に至る修道院運動、11世紀における東方教会との分裂後にはグレゴリウス7世による綱紀粛正改革が行われた。グレゴリウス7世は神聖ローマ帝国皇帝との叙任権闘争にも勝利し、聖職者の任命権を取り戻した。この闘争で彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門に処し、雪の中で三日間許しを乞わせるという露骨な形で教皇権の優位を示した。有名な「カノッサの屈辱」である。

皇帝としてのプライドを傷つけられたハインリヒ4世は報復に出た。ローマに進軍し、対立教皇を擁立してグレゴリウスを追放したのである。この後も教皇を頂点とする宗教権力と皇帝を頂点とする世俗権力の争いは、断続的に続くのであった。貴族から庶民に至るまで、中世ヨーロッパ世界の人々の精神的支柱であったキリスト教だが、その組織の上層部では生々しい権力闘争が渦巻いていたのだ。そのパワーゲームは、11世紀末に始まる十字軍遠征で頂点に達し、宗教界のみならず、中世ヨーロッパ世界全体を変質させていくのである。

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