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インドシナ半島史⑨ ~トゥングー朝とコンバウン朝~

パガン朝の衰退後、長く分裂状態が続いたビルマでは、1531年にビルマ人によって創建されたトゥングー朝が徐々に勢力を伸ばし、南部のモン人のペグー朝と北部のシャム(タイ)人勢力を駆逐して、1546年に3世紀ぶりのビルマ統一を実現した。トゥングー朝は一時はタイやラオス地域にも版図を広げたが度重なる外征で国内は疲弊し、征服地も長くは維持できなかった。17世紀にはイギリス・オランダが首都ペグーなどに商館を設けて通商を求めたが既にトゥングー朝には諸国と対等に渡り合える力はなく、都を内陸のアヴァに移して鎖国政策をとることとなった。これに乗じて南部のモン人はペグーを占拠し、トゥングー朝はますます国力を消耗する結果となったのである。

1752年、トゥングー朝はモン人の勢力に首都アヴァを占拠されて滅亡し、ビルマは再び分裂状態に陥ったが、イラワディ川中流域を本拠地としたビルマ人のリーダーであるアラウンパヤーがコンバウン朝を創設し、1757年には逆にモン人の本拠地であるペグーを占拠してビルマ再統一を成し遂げた。彼は仏教の聖地ダゴンも占領し、ヤンゴン(英語名称ラングーン)と改称して首都とした。コンバウン朝ではやはり上座部仏教が信奉され、金色に輝くシュエダゴン・パゴダは、今もヤンゴンの地で往時の隆盛を誇っている。

1767年、コンバウン朝は東のアユタヤ朝タイへと侵攻し、首都アユタヤを徹底的に破壊して数万人のタイ人を労働力としてビルマに連行した。その2年後には、清の乾隆帝の軍を撃退している。さらに18世紀末から19世紀にかけて西方への領土拡張を図り、アラカン山脈を越えてアラカン王国を滅ぼし、ビルマの最大版図を実現した。

コンバウン朝は創建当初は英国との関係を深めインドシナ半島諸国の中で優位に立ったが、ビルマの軍事大国化はインドを支配下に置いた英国との利害の衝突を生み、特に西方への領土拡大は両国の亀裂を決定的なものにした。やがてビルマは、インド西部のベンガル・アッサム地方を巡る英国との戦争の泥沼へと足を踏みこんでゆく。コンバウン朝の創始者であるアラウンパヤーは自らをアウンゼーヤ(勝利者)と称し、首都をヤンゴン(敵の撃滅=戦争の終わり)と名づけたが、戦争は結局、新たな戦争を呼び込んでゆくことになるのである。

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