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オリエント・中東史㊵ ~第四次中東戦争と石油危機~

1970年にエジプトのナセル大統領が急死し、後継となったサダト大統領は、イスラエルに奪われたシナイ半島などの奪還を目指して密かに軍備増強を進めた。1973年10月、エジプトはシリアと連携してイスラエルに奇襲をかけ、エジプト軍はシナイ半島、シリア軍はゴラン高原に、それぞれ侵攻した。緒戦はアラブ側の連勝であったが、次第に態勢を整えたイスラエル軍が巻き返し、シナイ半島の中間部で戦線が膠着した。そこで米国が仲介に入り、開戦後およそ1ヶ月で停戦となった。完全勝利とはいかないまでも、それまでのイスラエルとの戦闘における苦い敗北に対して、アラブ側が一矢を報いた戦争であった。

この戦争でアラブ諸国側は石油を武器として国際社会からのバックアップを得ようと試みた。サウジアラビアを中心にリビア・クウェート・アブダビ・ドバイ・カタール・バーレーン・アルジェリア・イラク・シリア・エジプトと、ほぼアラブ諸国全域をカバーするOAPEC(アラブ石油輸出機構)が、イスラエルを支持する国々に対して原油輸出を停止するという戦略をとったのだ。また、イランやベネズエラなどの非アラブ諸国も加わっていた石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を大幅に引き上げた。こうした自国産出の天然資源を武器とした資源ナショナリズムの勃興は、特にエネルギー資源を輸入に頼っていた欧州諸国や日本に大きな衝撃を与えた。いわゆるオイル・ショック(石油危機)である。

石油危機は中東の安価な石油資源に依存した日本の高度経済成長を終息させ日本国内ではマスコミの過大報道もあってトイレットペーパー買い占めなどのパニックが起こった。米国に追随してイスラエル寄りの姿勢を取っていた日本政府は急遽、イスラエル軍の占領地からの撤退とパレスチナ人の人権への配慮を声明。この露骨な外交政策の転換は、「アラブ寄りではなくアブラ寄りだ」と揶揄されることとなった。一方で日本政府は省エネを国民に呼びかけ、企業の側も省エネ技術の研究開発促進に努めたので、結果として資源利用の効率化が進み、日本経済全体のバージョンアップへの契機となった。まさにピンチをチャンスに転換し得た好例だと言えよう。

緒戦で優位に立ちながら、軍事力でシナイ半島を奪還できなかったエジプトのサダト大統領は、対イスラエル政策転換の必要性を痛感した。イスラエルの建国自体を認めないとしてきた従来の立場を捨て、イスラエルの存在承認を前提に、対等な立場での和平交渉に入ることを宣言したのである。そこには度重なる戦争で財政難に陥った自国経済を、イスラエルを支持する米国の援助を得て回復させようという意図もあったようだ。1978年、米国のカーター大統領の仲介で、サダト大統領とイスラエルのベギン首相との間でのキャンプ・デーヴィット合意が成立した。この合意により、エジプトはイスラエルを承認して国交を開き、イスラエルはエジプトにシナイ半島を返還することになる。翌年にはエジプト・イスラエル平和条約が成立し、中東和平は大きく前進したかに見えた。

しかしながら、この交渉にはPLOや他のアラブ諸国は招かれておらず、エジプトの単独行動は諸勢力からの強い反発を受けた。とりわけ、イスラエルによって居住地を追われたパレスチナ難民を代表するPLOは、当事者抜きの合意を激しく批判した。サダト大統領は欧米諸国からは中東和平進展の功労者として評価されながらもアラブ諸国内では孤立し、国内の反対勢力によって1981年に暗殺の憂き目に遭う。一方、イスラエルは1982年にシャロン将軍の指揮の下、PLOの本拠地を叩くべくレバノンに侵攻。触れただけで爆発して破片が飛び散るクラスター爆弾などの最新兵器を投入し、多くの非戦闘員を巻き添えにした甚大な被害をもたらした。PLOのアラファト議長はレバノンからチュニスへと逃れ、反イスラエルのゲリラ活動を継続することになる。一般市民も巻き込んだ非人道的な侵攻にはイスラエル国内からも非難の声が上がり、ベギン首相とシャロン国防相は辞任に追い込まれた。エジプト・イスラエルの和平合意は国家間の戦争を止めることはできたが、それは虐げられたままの人々にとっては救いとはならず、むしろ追い詰められた人々が絶望的なテロに走る状況を作り出してしまったのだ。ここに和平交渉の難しさがある。そして、このボタンの掛け違いが、更なるテロリズムの拡大を引き起こす遠因となっていくのである。

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