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ローマ・イタリア史㉗ ~イタリア再統一~

1860年、義勇軍千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアとナポリを相次いで占領した軍人ガリバルディが、サルディーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に征服地を献上したことにより、西ローマ帝国崩壊以来およそ1400年ぶりに、イタリア半島の再統一が実現した。ガリバルディ自身は共和主義者であったが、イタリア再統一のためには国王の権威が必要と考えたのである。1861年3月、サルディーニャ王国を前身としたイタリア王国が正式に発足した。首都は北部のトリノに置かれ、教皇領のローマや北東部のヴェネチアは、この時点では未だ領土に含まれていなかった。

1866年、普墺戦争でのオーストリアの敗北に乗じてイタリア王国はヴェネチア併合を実現する。さらに1870年には普仏戦争でのフランスの敗北による仏軍の撤退に乗じて教皇領ローマをも併合、翌年には首都をローマに移した。ただし、領土を奪われたローマ教皇(ヴァチカン)との確執は残り、また北部のトリエステと南チロルがいわゆる「未回収のイタリア」としてオーストリア領に残されたことは、第一次世界大戦の遠因のひとつとなってゆく。

19世紀後半にイタリア再統一が成ったのは、英米仏露などの強国からの圧力に対するナショナリズムの高揚によるところが大きい。共和政と王政の路線対立がありながら統一を優先した妥協が成立したのも、外圧への危機感あってのことだろう。同時期に、諸侯の領邦であったドイツも、プロシア中心の小ドイツ主義かオーストリア中心の大ドイツ主義化の路線対立がありながらも統一を実現している。さらに日本では開国後の急激な社会変革を経て江戸幕府が倒れ、明治政府が天皇を支柱とした近代国家樹立を急いでいた。近代化に遅れをとったという焦りを抱えた後発国家グループとして、イタリア・ドイツ・日本の三国には共通点がある。これもまた、後の大戦につながる遠因となったと思われるのだ。

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