連載日本史135 幕政の安定(1)
1651年、将軍家光の死去に伴い、11才の徳川家綱が四代目将軍に就任した。会津藩主の保科正之が補佐についた。同じ年、由比正雪の乱(慶安の変)が起こる。改易や減封により主家を失った牢人たちが、幕府の転覆を図ったのである。リストラで職を失った軍人たちの不満の暴発であった。泰平の世の代償とも言える。
慶安の変は幕政の転換の契機となった。大名の改易・減封を一気に進めすぎたという反省から、末期養子の禁止を緩和し、藩主の死去によるお家断絶のリスクを減らした。1663年には武家諸法度を改定して主君の死に伴う殉死を禁止、翌年には全国の大名に領地宛行状が発給され、さらにその翌年には大名の人質制度が廃止された。つまり、戦国時代から残る遺風が廃され、戦時から平時へのモードチェンジが行われたのだ。武断政治から文治政治への切り替えである。
地方の藩政においても、モードチェンジは進んだ。家綱の補佐として活躍した会津藩主の保科正之は朱子学者の山崎闇斎を招いて学問を奨励し、漆や蝋(ろう)などの専売を勧めた。こうした地方での学問・産業振興政策は各地に広がった。岡山藩では池田光政が熊沢蕃山を招いて閑谷学校を設立し、治水や新田開発に力を入れた。加賀藩では前田綱紀が木下順庵を招き、和漢古典の収集・保存・編纂事業を行っている。水戸藩では「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀が明の儒者である朱舜水を招き、「大日本史」の編纂を開始した。この大事業は光圀没後も水戸藩のライフワーク(?)として継承され、全397巻が完成したのは明治期に入ってからであった。なんとも息の長い文化事業である。
家綱政権は、庶民の統制に宗教を活用した。1665年には諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度を出し、全国の寺社を統制下に置くとともに寺請制度により民衆を檀家として登録し宗門改帳を作成、寺社を通じた庶民の管理統制を行った。ここに至って仏教も神道も幕藩体制を支える重要なパーツのひとつとして、全国に張り巡らされたコントロールシステムに組み込まれたのである。
室町幕府と江戸幕府を比較した時、対照的に見えるのは四代目将軍の治世である。室町幕府の四代将軍義持は三代義満の治世を完全否定し、政策の大転換を行った。その後、六代将軍義教によって義持の治世は否定され、義満時代の治世が復活する。一周回って元に戻ったわけだ。これが政治の混乱と幕府の衰退を招いた一因であると思われる。一方、江戸幕府の四代家綱の治世は、三代家光までの治世の基本線を継承しながら、時代の変化に応じて段階的に政策の転換を行うものであった。両者の相違は全否定と批判的継承の違いであると言える。結果として、その後も江戸幕府は安定した政権運営を実現する。優れた補佐役に恵まれたという幸運もあっただろうが、一見地味な四代目の治世の違いが、両者の明暗を分けたのではないかと思われるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?