石垣りんと戦後民主主義②
先述したように本論考の目的は、石垣りんの詩作の足跡を辿りながら、戦後民主主義とは何かを考察することにある。そのための手掛かりとして、戦後民主主義の特質を、いくつかのキーワードを挙げて描写してゆきたい。ここで掲げる第一のキーワードは「悔恨」である。
民主主義と一口に言っても、時代や地域によって、その形態や特質はさまざまである。古代ギリシャの民主主義から近代欧米世界、冷戦時代の東西陣営と第三世界、そして現代の「民主主義」を標榜する諸国家に至るまで、その内実は一様ではない。その中で、日本の戦後民主主義を特徴づける第一の要素を挙げるとするならば、それは「悔恨」にほかならないと思うのだ。
戦前の日本にも民主主義はあった。自由民権運動や大正デモクラシーは日本近代史における大きな潮流であったし、その経験があったからこそ、戦後、米国によってもたらされた新たな民主主義を受容する下地ができていたと言えよう。また、日本のみならず、戦後、植民地支配から解放された諸国において、多くの民主主義国家が誕生した。それら過去の民主主義、同時代の民主主義と比較してみても、日本の戦後民主主義の根底にある「悔恨」の強さは際立っているのだ。
戦後すぐに旗揚げされた日本教職員組合(日教組)のスローガンは「教え子を再び戦場に送るな」であった。このようなスローガンを最優先に掲げる労働組合が他国にあるだろうか。戦意高揚に手を貸し、多くの若者を死へ追いやった教師たちの悔恨は、文学界や経済界にも広く通底するものであった。1951年から10年間にわたって刊行された「銀行員の詩集」もまた、そのような悔恨を原動力として生まれた文学活動の一環であり、りんの作品もその中に何篇か収録されている。
敗戦を境にした意識の断層、それに伴う激しい悔恨、二度とあの時代に戻してはならないという強い思いは、りんの詩中の随所に見られる。それは同時代の詩人の多くに共通する思いでもあり、たとえば、りんと同世代に属する茨木のり子の代表作「わたしが一番きれいだったとき」にも如実に表れている。ここで二人の詩を並べて味わってみよう。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人たちがたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
(中略)
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
(茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」)
出征兵士を送るとき/みんな涙をかくして笑ったと話すと
若い人は不思議そうに首をかしげる
(中略)
歓呼の声はどこからもわき起こらない
人間は極端に歓呼しないほうがいい
行楽の人でにぎわう/プラットホームは明るくかわき
誘い合った家族と家族が/めいめい切符をにぎりしめている
(中略)
収入と支出のバランスで行く先が決まる
勝って帰れとだれも言わない
海ゆかば水漬く屍であるはずがない/旅に出かけるのである
(石垣りん「家族旅行」)
作風は違えど、二人の作品の根底には同種の悔恨が感じられる。そこから戦後の自由の享受に対する賛美も生まれてくるわけだが、同時に彼女たちは、戦争で死んでいった人々に対して、生き残った者の幾分かの後ろめたさも自覚せずにはいられない。それが作品の随所に顔を出す。特に戦争を題材とした石垣りんの詩では、その傾向は顕著である。
地球が原爆を数百個所持して/生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに/あなたは美しいのか
しずかに耳を澄ませ/何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは/手の中にある
午前八時一五分は/毎朝やってくる
(「挨拶―原爆の写真に寄せて」)
死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
(中略)
戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた/私たちに近づく。
そうでなければ良い。
八月十五日。/眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは/あなたたち。
行かないで下さい/皆さん、どうかここに居て下さい。
(「弔辞」)
戦争の終り、/サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら/何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
(中略)
それがねえ/まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに/どうしたんだろう。
あの、/女。
(「崖」)
戦争で死んでいった人々と、生き残った自分との間は紙一重であり、今ある自己の生は偶然の産物に過ぎない。戦争を挟んだ死者と生者の距離の近さ。その皮膚感覚が、戦後民主主義の担い手となった第一世代に特有のものであったと思われるのである。 <つづく>
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