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インド史⑮ ~戦後の南アジア~

1950年、インド共和国憲法が成立し、インド連邦はインド共和国として新たな一歩を踏み出した。憲法では、ヒンディー語が新生インドの公用語とされた。一方、パキスタンではウルドゥー語が公用語となった。宗教だけでなく言語の面でも、インドとパキスタンは分離の道を選んだのである。

ヒンディー語は現代において中国語・英語に次ぐ世界第三位の使用者数を持つ言語だが、その歴史は意外に新しい。もともとムガル帝国の公用語は、征服者であるムスリムが西方のイスラム世界から持ち込んだペルシア語であった。それが北インドの口語であったヒンドゥスターニー語と融合してウルドゥー語が生まれたのだ。それが更に、英国の植民地支配における分割統治の中で起こった言語純化運動によって、ウルドゥー語からアラビア語・ペルシア語起源の語彙を除いたヒンディー語へと分化していったのだ。ウルドゥー語がアラビア文字で表記されるのに対して、ヒンディー語はデーヴァナーガリー文字というインド固有の文字で表記される。ヒンディー語とウルドゥー語はいずれもインド・ヨーロッパ語族という共通の起源を持つ言語だが、その成立過程にはヒンドゥー教徒とムスリムの対立の歴史が複雑に絡み合っているのである。

インドの言語事情の複雑さは、ヒンディー語とウルドゥー語の関係だけではない。南インドではドラヴィア語系のタミル語を使用する人々が多数派であり、北東部にはシナ・チベット語族やオーストロアジア語族に属する言語を使用する人々が多数を占める地域もある。州境をまたぐと言葉が通じないと言われる所以である。現在の憲法では22言語が各州の公用語に規定され、紙幣には10種類以上の文字で金額が記され、結局は準公用語である英語が最も良く通じるという皮肉な事態になっている。

さまざまな矛盾を内包しながらも、新生インドは戦後の国際社会で重要な役割を果たすようになった。1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、インド初代首相のネルーは非同盟主義を掲げ、中国首相の周恩来らと共同して平和五原則をまとめた。東西冷戦の中で、どちらの陣営にも属さない第三世界のリーダーとして、戦後の世界秩序の構築に貢献したのである。

しかし現実の国際関係では、しばしば周辺諸国との衝突が起こった。1959年には中国でチベットの反乱が起こり、ダライ・ラマ14世がインドに亡命したことで両国の間に緊張が走った。1962年には中印国境紛争が起こり、軍事力で劣るインドは米国の支援を受けざるを得ず、ネルーは非同盟政策を放棄することとなった。1965年には第二次インド・パキスタン戦争が勃発。北西部のカシミール地方はインド・パキスタン・中国がそれぞれ領有権を主張する紛争の火種として、停戦後も緊張を孕み続けることとなる。1971年には東部パキスタン(ベンガル地方)の独立運動を弾圧するパキスタンに対抗して、ネルーの娘であるインディラ・ガンジー首相が独立支援を表明。第三次インド・パキスタン戦争が起こった。その結果、東部パキスタンは独立してバングラディシュとなり、ベンガル語を公用語として、独自の道を歩むことになったのである。

一方、大戦後にイギリス連邦の一員として独立したセイロンは、1972年に完全独立を果たし、国号をスリランカと改めた。しかし、多数派の仏教徒であるシンハラ人寄りの政策が採用されたことから、少数派ヒンドゥー教徒のタミル人の分離独立運動が始まり、80年代には内戦となった。インドでの宗教対立は多神教のヒンドゥー教と一神教のイスラム教の争いであったが、スリランカでは同じ多神教の仏教とヒンドゥー教が対立したのだ。

インドのインディラ・ガンジー政権は強圧的な政治で次第に国民の支持を失った。80年代には自治を要求するシク教徒への弾圧を強行。反発したシク教徒によって首相自身が暗殺されるという事態となる。後継となった息子のラジブ・ガンジー首相は87年にスリランカ内戦に介入してシンハラ人政府を支援。それに反発したタミル人過激派のテロによって91年に命を落とす。母子二代にわたって暗殺の悲劇が繰り返されたのである。

南アジアの他の国々でも大きな変動があった。中国とインドの間にそびえるヒマラヤ山脈に位置し、インドの影響を受けてヒンドゥー教徒が多数を占めるネパールは、1950年代から立憲君主制を敷いていたが、国王の実質的な独裁体制に対して90年代に民主化運動が起こり、王制打倒と人民共和制樹立を掲げるネパール共産党毛沢東主義派が台頭し、武装闘争から内戦となった。その背景には農村部の深刻な貧困があった。10年にわたる内戦を経て国王が退位。ネパールは連邦制の民主共和国となったが、政治は安定せず混乱が続き、内戦の背景となった貧困の問題は解消されていない。

同じヒマラヤ高地の山岳国でも、ブータンの場合は随分と事情が異なる。敬虔な仏教国であるブータンは、1970年代まで絶対王政を敷き、険しい山岳を天然の要害として鎖国政策を保ってきたが、72年に国王となったジグミ・シンゲ・ワンチュクによって大きな改革が行われた。彼は強大な国王の権限を自ら段階的に縮小し、行政の実権を内閣に委ね、総選挙を実施し、国民議会に国王不信任決議の権利まで付与して、本格的な立憲君主制の構築を行ったのである。また、彼はGNP(国民総生産)に代わる指標としてGNH(国民総幸福)を提唱し、国家の経済力ではなく、国民の生活への充足度を高める社会づくりを目指した。

GNHとは、公正な社会経済発展・環境の保全・文化の継承・責任ある政治運営の4本の柱を中心に9つの領域を設定し、それぞれの充足度・達成度を数値化したもので、そこから見えてくる課題に対して具体的な方策を講じていくための指標である。ブータンは美しい自然環境とその中で培われた豊かな伝統文化を持つが、経済指標的には資源や産業に乏しく、統計上は貧しい国のひとつに数えられる。しかし、2008年のGNH値が80%を超えている点から見れば、ブータンの人々は、いわゆる「貧しい」暮らしの中でも、確かな幸福を感じているように思われる。

GNHの考え方の根本には「相互依存関係性」があるといわれる。これは仏教の「輪廻転生」の教えにも通じるもので、大いなる自然の中でのあらゆる生命のつながりを自覚し、自らの利益のみを優先するのではなく、思いやりの気持ちを大切にし、社会や自然環境全体の調和と幸福を図っていこうという概念である。それは国王自身の政治姿勢にも表れていると言えよう。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王は、自ら導入した国王定年制によって譲位し、後継のジグミ・ケサル・ワンチュク国王も前国王の敷いた路線を継承しながらGNHの更なる増進に努めている。ネパールとブータンの両国を比べてみると、その立地条件や経済力にはさほど差はないように思えるが、ここ半世紀の歴史の歩みは全く異なったものになっている。それはひとえに指導者の資質と人望の差であったといっても過言ではないだろう。かつて孔子は、政治にとって最も重要なものは何かと問われて、「食(経済)は重要だが、それより大切なのは信だ。信がなければ国は成り立たない」と答えた。三千年の時空を超えて、中国の老哲学者の言葉は、ネパールとブータン、そして今日の世界においても、生き続けているように感じられるのである。

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