バルカン半島史⑨ ~ペロポネソス戦争~
前431年、スパルタ率いるペロポネソス同盟軍がアテネ本拠地のアッティカ地方に侵攻して始まったペロポネソス戦争は、何度か和平の好機を迎えながらも、それを活かせずに長期化し、結果的にギリシャ世界全体の衰退を招いた。戦争が泥沼化した要因には、各ポリスの利害の対立もあったが、デロス同盟の盟主であって戦争終結への大きな鍵を握っていたアテネが、ペリクレスの死後、デマゴーグ(煽動政治家)主導の衆愚政治に陥りつつあったことが大きい。開戦時にはエーゲ海全域を勢力権に収めていた経済大国アテネは戦争終結時の前404年にはアテネ本土とサモス島を除く全ての海外領土とエーゲ海の制海権を失い、デロス同盟も解体の憂き目にあった。それはアテネ民主政の内部崩壊の帰結でもあったのだ。
アテネの衰退は疫病の流行から始まった。開戦の翌年、人口過密になっていたアテネ市内で疫病が大流行し、ペリクレスは2人の息子を相次いで失くし自らも一年後に死去した。彼の死後、アテネでは主戦派と和平派が対立したが、主戦派のクレオンが民衆を扇動し、戦利品の分け前を要求する下層民に支持されて主導権を握った。クレオンの戦死後、和平派のニキアスが講和を実現したものの、主戦派のアルキビアデスが巧みな弁舌で民衆の熱狂的な支持を得てシチリアへの遠征を敢行。和平の機運は失われ、アテネからの遠征軍はスパルタとシラクサの連合軍に敗北し、ニキアスは戦死しアルキビデアスはスパルタに亡命するという予想外の展開となる。戦争末期にはスパルタ側がペルシアの支援を得てアテネに勝利するという、もはや戦争の目的が何だったのかわからなくなるような形での幕引きとなった。この戦争でアテネはギリシャのポリス内での主導権を完全に失い、代わって覇権を握ったスパルタにもギリシャ全土を抑える政治力や外交力はなく、結果的に当時の世界で最先端の文明を誇ったギリシャ世界は自滅への道をたどったのであった。
古代ギリシャ哲学の研究者であった田中美知太郎氏は、1941年刊行の自著「ソフィスト」の中で、ペロポネソス戦争においてアテネ没落の決定打となったシチリア遠征の失敗と、その誘因となったデマゴーグに扇動された衆愚政治について、以下のように述べている。
『シシリィ島シュラクサイへのアテナイ軍の遠征は、アテナイ帝国没落の最大の原因となるものなのであるが、この遠征軍の指揮者ニキアスは、この企てに賛成でなかったにもかかわらず選ばれて総司令官となり、事が成功しないため、国民議会の弾劾を恐れて容易に帰国できず、時機を失して全軍全滅の悲運にあって命を落としたのであるが、しかしすでにスパルタとの長期戦によって種々の無理が生じている時なのにもかかわらず、一部強硬論者の大言壮語に迷わされてこのような大遠征を決定した国民議会は、ついに自己の責任には気づかなかった模様なのである。当時のアテナイの政治は、まさにプラトンが劇場政治と呼んだところのものにほかならず、一切は聴衆の拍手喝采によって決定されたのである。慎重を要する外交財政計画において、かかる政府の危険なことはいうまでもないであろう。特に戦争心理に浮かされた国民大衆が、演説会の興奮した空気の中で、デマゴーグの煽動演説によって国策を決定するとしたら、その結果は真に恐るべきものであろう。アテナイが勝つべかりし戦争を、30年の長期戦ののち、まったくの孤立に陥って敗戦したのは、主として外交上の失敗によるのである。』
この文章は泥沼化する日中戦争と太平洋戦争開戦前夜の日本の空気を背景として書かれたものであり、古代ギリシャの問題が現代にも通底するものであることを如実に示している。民主主義(democracy)と煽動者(demagogue)は共通の語源(demos=民衆)を持つ言葉である。アテネにおけるデマゴーグの台頭と衆愚政治の発端になったのは、疫病の大流行(pandemic)による社会不安であった。pandemic もまた、demos(民衆)に語源を持つ言葉のひとつだ。そして今、世界的なpandemic を経験した現代において、我々の世界もまたデマゴーグの台頭と衆愚政治に陥りつつあるのではないかという危機感を、自戒をこめて共有していかねばならないと思うのである。