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「国語」と「日本語」 ~語用論からみた国語教育と日本語教育①~
語用論(Pragmatics)とは言語学の一分野であり、社会的・文化的・状況的文脈の中で言語がどのように使用されているのかを研究するものである。実際のコミュニケーションにおいて、言葉が文字通りの意味ではなく、言外の含みを伴って用いられる現象はしばしば起こる。特に依頼や拒絶などの場面では、直接的な表現を避け、間接的に意図を伝えるケースの方が多いのではないだろうか。他言語にも多かれ少なかれそうした傾向は見られるが、日本語にはそうした間接表現が、とりわけ頻繁に現れるように思われるのだ。
たとえば「寒いね」という言葉は文字通りの意味で使われる場合もあれば、窓の傍にいる人に対して「窓を閉めて欲しい」という間接的依頼として用いられる場合もある。その意図を読み取れずに、「寒いですね」と答えただけで窓を閉めずにいると「察しの悪い人」と思われてしまうわけだ。「一緒に食事でもどう?」というデートの誘いに「最近忙しくて・・・」とか「風邪気味で・・・」とか「ペットが病気で・・・」とか、明確な拒絶ではなくても間接的な逃げの返事が何度かあれば、相手にはその気がないと諦めるべきだが、そうした判断ができない人が延々と相手につきまとい続け、果てにはストーカーと呼ばれてしまうことにもなる。そこまでいかなくても、人間関係トラブルの多くは語用論的問題、すなわち言葉に付随する文脈を読み取れないことから起こるミスコミュニケーションに一因があるのではなかろうか。
こうした問題については国語教育にも日本語教育にも有効な処方箋はない。語用論的技能は社会経験を積むことで自然と身につけていくもので、教室での学習活動にそれを体系的に取り入れていくのは難しいという事情もある。しかしながら、特に日本社会で働くことを前提として日本語を学ぶ学習者にとってみれば、コミュニケーションを円滑にするための語用論的能力は必要不可欠だ。外国人労働者の急増が確実視される昨今では、その必要性は益々高まっていくことだろう。また、日本語を母語とする学習者を対象とする国語教育においても、現実の対面コミュニケーションの機会が減り、SNSなどのネットを介したやりとりが全盛となりつつある現代社会において、語用論的能力の習得は大きな課題となりつつあると言える。未開拓の分野であるからこそ、国語教育と日本語教育の双方が連携していく余地は大きいと考えられるのである。