オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~
1878年の露土戦争終結に伴うベルリン条約によって、オスマン帝国領であったバルカン半島のルーマニア・セルビア・モンテネグロの三国が独立した。もともとこの地域にはゲルマン系の民族とスラブ系の民族が混在しており、半島への勢力拡大を狙うオーストリア・ハンガリー帝国はパン・ゲルマン主義を唱えて前者を、ロシアはパン・スラブ主義を唱えて後者を支援した。いずれも現地住民のためというよりは、自国の領土拡大をもくろんでのことである。オスマン帝国が衰退し、その支配が緩んだことで、民族対立とそれを煽る大国の思惑が剥き出しになったのだ。
それでも1890年代まで、ベルリン条約の立役者であったドイツの自称「公正な仲買人」である鉄血宰相ビスマルクが健在のうちは、各々の勢力の均衡は保たれていたと言える。それが崩れるのはドイツの新帝ヴィルヘルム2世が即位し、ビスマルクを追放して親政を始め、露骨な帝国主義政策を打ち出してからである。一方ロシアは1904年から1905年にかけての日露戦争に敗れ、ロマノフ王朝下での上からの近代化路線に行き詰まりを見せ始めていた。日露戦争での日本の勝利は、列強の支配下にあった中東の民族運動にも大きな刺激をもたらし、オスマン帝国でも日本に倣って旧体制を打破して立憲政治を樹立しようとする青年トルコ革命が起こった。1908年、青年トルコ党は専制スルタンのアブデュルハミト2世を退位させてミドハト憲法を復活させ、立憲政治を実現するが、スルタンの権力はなおも残り、双方の対立と混乱が続いた。1911年から12年にかけての北アフリカの支配を巡るイタリア・トルコ戦争にも敗北したオスマン帝国の窮状に乗じて、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを強引に併合。その地に住んでいたスラブ系の住民たちは猛反発し、周辺諸国もそれぞれの思惑から介入を強めた。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島は、一触即発の危機に陥ったのである。
1912年、アルバニアの反乱を機に、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアのバルカン同盟諸国がオスマン帝国に宣戦布告。第一次バルカン戦争が始まった。ロシアがバルカン同盟側を支援したこともあり、戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、帝国は半島の領土を失った。ところが戦後処理において旧オスマン帝国領のマケドニアの分割を巡り、ブルガリアと他のバルカン同盟諸国との間で激しい対立が起こり、翌年にブルガリアがセルビア・ギリシアに侵攻。第二次バルカン戦争となった。まさしく火薬庫である。
第二次バルカン戦争では、ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国・モンテネグロ・ルーマニアがギリシア・セルビア側についたため、短期間で決着がつき、敗れたブルガリアは領土縮小を余儀なくされた。不満を抱えたブルガリアは、今度はドイツ・オーストリア陣営に接近。ロシアはセルビア陣営に加担し、ドイツの勢力拡大を警戒した英仏も三国協商を通じてロシアと連携していた。各々の思惑がもつれ合い、火薬庫の更なる発火は時間の問題だった。そしてそれは、今度はバルカンのみならず、全世界を巻き込んだ大戦へと拡大していくのである。