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昭和

ヤバいNEWSが 駆け抜けてゆく 黄昏の海を越え
湿ったNEWSが 吹き抜けてゆく 黒い画面の中を
どこにも流れない 過去の澱みの中で

新しい歌を覚えよう 新しい朝を待ちながら
新しい歌を覚えよう 新しい時代のために

降り続く雨は 闇に紛れて 雪に変わるだろう
雪は静かに 降り積もるだろう 誰の肩の上にも
見知らぬ町 見知らぬ屋根に 見知らぬ空の下に

新しい歌を覚えよう 新しい朝を待ちながら
新しい歌を覚えよう 新しい時代のために

手を合わせる人がいる 座りこんだ人がいる
しゃべりすぎては 舌を噛みちぎり
うつむいては 黙りこむ

朽ち果てた箱舟の中 抗いの産声が響く
船を出せ 船を出せ 蓬の河を下り
約束の地も 消えた海へ 新しい船を出せ

沈黙の鎖をふりほどいて 赤子の眼が今ひらく

新しい歌を覚えよう 新しい朝を待ちながら
新しい歌を覚えよう 新しい時代のために


*1989年1月、昭和が終わりました。前年の秋から既に、天皇の容態悪化に伴う自粛ムードが広がっており、TVをはじめとしたマスメディアにおける派手な演出の自粛、日本各地の秋祭りや運動会などのイベントの自粛、クリスマスや正月のお祝い行事などの自粛などなど、日本中で起きた過剰とも言える自粛反応に大きな違和感を覚えたものです。この歌は、そうした違和感の中で生まれました。
 もちろん日本という国にとって天皇の存在は大きく、特に昭和という時代は戦争という大きな分断を経た激動の時代でした。それだけに人々の思い入れも強く、平成・令和を経て35年を経た現在でも、昭和を振り返るドキュメンタリーや評論や小説や映画やTVドラマや歌謡番組などが次から次へと生み出されているのは、昭和生まれの一人として十分に共感できます。
 ただ、あの頃の自粛ムードに対して覚えた違和感は、今も身体の奥に残っています。それはおそらく、あの自粛ムードのほとんどの部分が、昭和天皇に対する心からの敬意によって生まれたものではなく、一種の「同調圧力」によって生み出されたものであるように感じられたからだと思います。そして、その同調圧力こそが戦前の日本を無謀な戦争へと駆り立てていった大きな要因であると考えるならば、それは昭和天皇への鎮魂にはなり得ないのではないかと感じたのです。
 昭和38年生まれの僕は、もちろん先の大戦を直接経験してはいません。書物や映像、あるいは年配の経験者の話を通して知り得る断片的な情報をつなぎあわせて、自分なりのイメージを作り上げているにすぎません。しかし、その中で当時の指導者層をも含む多くの年配者が口にする、「あの頃は戦争に反対できる空気ではなかった」という言葉と、昭和の終わりに経験したあの自粛ムードは、どこかで地続きになっているような気がするのです。
 戦後生まれの僕は、昭和天皇に対しては、戦前生まれの世代ほど思い入れは強くはありません。しかし、平成天皇ご夫妻には、深い尊敬の念を抱いています。かつて日本が戦地としたアジアや太平洋の各地に自ら赴き、戦争の犠牲者たちに鎮魂の祈りを捧げる姿や、震災などで被害を受けた人々のもとを訪れては、同じ目線で寄り添っていこうとする姿には、何度となく深い感銘を受けました。
 2016年8月、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」がありました。その一部を引用します。

『私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じてきました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共におこなってきた、ほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。』

 ニュースでは「退位」に関心が向かいがちでしたが、ここで示されている「象徴的行為」の内容こそ、平成天皇ご夫妻が最も大切にされてきたことではないかと思うのです。
 哲学研究者で武道家の内田樹氏は、当時に受けた天皇制についてのインタビューの中で、以下のように述べています。

『昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてきました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。
 「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。
 ここでの「鎮魂」とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるための祈りのことです。陛下は実際に死者がそこで息絶えた現場まで足を運び、その土に膝をついて祈りを捧げてきました。もう一つの慰藉とは「時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」と「お言葉」では表現されていますが、さまざまな災害の被災者を訪れ、同じように床に膝をついて、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけることを指しています。
 死者たち、傷ついた人たちのかたわらにあること、つまり「共苦すること(コンパッション)」を陛下は象徴天皇の果たすべき「象徴的行為」と定義したわけです。
 憲法第7条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことである、と。
 憲法第1条は、天皇は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」であると定義していますが、この「象徴」という言葉が何を意味するのか、日本国民はそれほど深く考えてきませんでした。天皇は存在するだけで、象徴の機能は果たせる。それ以上何か特別なことを天皇に期待すべきではない、と思っていた。けれど、陛下は「お言葉」を通じて「儀式」の新たな解釈を提示することで、そのような因習的な天皇制理解を刷新された。天皇制は「いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくか」という陛下の久しい宿題への、これが回答だったと私は思っています。』
 
 平成が終わってまもなく5年になります。この天皇と時代を共にできたことは本当に幸せなことだったと、僕は今も思っています。

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