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インド史⑩ ~イギリスのインド支配~

ムガル帝国の内部分裂と弱体化に伴い、イギリスとフランスのインド植民地化への動きが加速した。大航海時代に西海岸のゴアに拠点を築いたポルトガルは貿易で巨額の利益を得たが、広大なインドを植民地化するほどの力はなかった。だが、17世紀末から18世紀にかけてインドに進出した英仏両国は、いずれも重商主義政策をとって国を挙げての植民地獲得競争に乗り出しており、ヨーロッパのみならず、アジアやアメリカ新大陸などでも熾烈な争いを繰り広げていたのである。インドも否応なしに、その激流に飲み込まれていくことになる。

英仏両国のインドにおける植民地獲得競争の先兵となったのは東インド会社である。イギリス東インド会社は西海岸のボンベイ(ムンバイ)、東海岸のマドラス(チェンナイ)やカルカッタ(コルカタ)を拠点としてインド進出に乗り出し、東海岸のポンディシェリやシャンデルナゴルに拠点を置いたフランス東インド会社に対抗した。東インド会社とは、当時の欧州諸国の重商主義政策の下でアジア貿易の独占的特権を政府から賦与された機関である。イギリス東インド会社は絶対王政最盛期の1600年にロンドンの商人たちがエリザベス女王の特許を得て設立したもので、「会社」とはいえ独自の武力を持ち、時には海賊と密かに手を結んで略奪を行うなど、国家公認のマフィア的存在であったと言ってもいいだろう。

インド東海岸で1744年に始まった英仏植民地戦争としてのカーナティック戦争は、両国の東インド会社を中心に現地の勢力を巻き込んだ大規模な戦闘となり、断続的に1761年まで続いた。当初はフランスが優勢であったが次第にイギリスが巻き返し、1757年のプラッシーの戦いでイギリスの勝利が確定的となった。最終的には欧州や新大陸での戦後処理も含めたパリ条約が1763年に締結され、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有以外のインド権益を放棄し、イギリス東インド会社を通した英国のインド植民地支配が本格化する。東インド会社はベンガル地方の徴税権(ディワーニー)を獲得し、単なる貿易商社からインド統治機関へと変貌を遂げる。それに対して宗教対立から分裂抗争を繰り返していたインド諸侯は連携して対抗する術を持たず、英国による植民地支配を受け入れるしかなかったのである。

既に産業革命期を迎えていたイギリスは、機械化による急激な発展を遂げつつあった自国の綿工業における原料の供給地と市場としての役割を、植民地のインドに求めた。すなわち、インドで栽培された綿花を安く買い叩いて英国に輸入し、自国の工場で加工生産した綿製品をインドに売りつけるという搾取のシステムを確立したのである。これによってインドの伝統的な家内工業は大打撃を受け、インド民衆の大多数が貧困に陥った。

東インド会社は更にベンガル地方で地主を通じた徴税制度であるザミンダーリー制を導入し、経済的支配を強めた。18世紀後半にはマイソール戦争やマラーター戦争によってインド中部を制圧した東インド会社は、新たな支配地域では農民から直接徴税するライヤットワーリー制を導入した。つまり、各地域の実情に応じて最大限の税収が確保できる方策を講じたのだ。東インド会社の利益の最大化は、すなわちインド民衆の貧困の最大化でもあった。

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