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連載日本史138 幕政の安定(4)

江戸時代の農業の歴史は、新田開発の歴史でもある。特に十七世紀から十八世紀初頭、すなわち江戸時代前期には治水・灌漑技術の進歩に支えられた新田開発ラッシュが起こった。田畑面積は十七世紀初頭の慶長年間から十八世紀前半の享保年間までの間に五割以上も増加し、石高も大幅に増えている。揚水に用いた踏車、耕作に用いた備中鍬、脱穀用の千歯扱(せんばこき)、選別用の唐箕(とうみ)など、農具の改良が次々となされ、生産性の向上に貢献した。干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)などの金肥(購入肥料)も普及し、1697年に出版された宮崎安貞の「農業全書」は、農業技術を図解入りで説く農書の名著として全国に広まった。日本の識字率が上がったのは農書を読むためではないかという説が生まれるほど、人々は熱心に農業技術の向上に努めたのである。

農具の発達(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

江戸期に開発された新田には、村が開発事業を請け負う村請新田の他に、有力町人が開発を請け負い、地主としての利益を得る町人請負新田や幕府の代官が主導する代官見立新田があった。これは新田開発が投資事業や公共事業としての側面を持っていたことを示している。開発工事に用いられた掘削・水利・堤防築造などの土木技術は、もともとは戦国時代に発達した築城・攻城のための軍事技術であった。また、新田開発の労働力には、もともとの農民だけではなく、泰平の世で職を失った武士たちも動員されたことだろう。開発後の農地で耕作に勤しんだ元武士も少なからずいたはずである。こうしてみると、江戸時代前期の新田開発ラッシュは、戦時から平時への社会構造の変化に伴う、失業対策も含めた公共投資事業の側面を多分に持っていたように思われる。

横浜市の吉田新田開墾図(www.townnews.co.jpより)

農産物の主役は何といっても、江戸時代における基軸通貨的な役割を果たしていた米であったが、各藩における特産物振興政策もあって、商品作物の種類も飛躍的に多様化した。桑・漆・茶・楮(こうぞ)は四木と呼ばれ、桑は生糸の生産に不可欠な養蚕の飼料として、漆は漆器や建築・家具などの塗料として、茶は嗜好品として、楮は和紙の原料として、各地で生産された。また麻・藍・紅花は三草と呼ばれ、麻は衣料や網・綱・蚊帳などの材料として、藍は染料として、紅花は染料や油の原料として活用された。その他にも綿・油菜・タバコ・甘蔗(サトウキビ)や、畳表の原料となる藺草(いぐさ)などの商品作物の栽培が各地に広まり、地方経済を支えた。

江戸時代の産物と産地(ktymtskz.my.coocan.jpより)

江戸時代前期の急激な開発ラッシュは環境破壊という副作用ももたらした。各地で頻発した自然災害の中には、乱開発による地盤の緩みや保水力の低下によるものが少なからずあったようである。十八世紀初頭に起こった宝永大地震は、それまでの急速な拡大路線にブレーキをかける転機にもなった。江戸時代も中盤から後半になると、開発を進めながらも、持続性と循環性を考慮に入れたエコロジー思想の萌芽が見られるようになる。それは産業革命期に入りつつあった十八世紀ヨーロッパの動きとは全く異なる動きではあったが、考えようによっては、むしろ江戸時代の日本は、欧米型の近代化とは違った形での、独自の近代化を提示し得ていたようにも思えるのだ。




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