オリエント・中東史㊶ ~イラン革命とイラン・イラク戦争~
1970年代のイランでは、米国石油資本と結んだパフレヴィー国王が開発独裁路線の政治体制をとり、「白色革命」と呼ばれる上からの極端な欧米化を進めていた。だが、石油を巡る利益は一部に独占され、国民生活は向上せず、不満が鬱積しつつあった。そんな中、イランの国教であったイスラム教シーア派の信仰に基づく政治の実現を提唱し、パフレヴィー国王の対米従属路線に強く反対して国外追放になっていたホメイニ師を誹謗する記事が新聞に掲載されると、それが師の影響力を排除しようとする政府の陰謀だとして民衆の間で暴動が起こった。逆に言えば、国外追放後も10年以上にわたって反政府活動を続けていたホメイニ師の影響力は、それだけ強いものだったと言える。暴動は全土に拡大し、収拾をつけられなくなったパフレヴィー国王は1979年に米国へ亡命。パフレヴィー朝は終焉を迎え、代わって亡命先のパリから帰国したホメイニ師が最高指導者として政権を掌握した。ホメイニ師は厳格なイスラム教シーア派の教義に基づく統治を掲げ、米国資本の撤退を機に石油国有化に踏み切った。革命政権は資源保護の立場から石油輸出の制限措置を打ち出したので、国際市場では原油価格が高騰し、第二次石油危機と呼ばれた。
イランで時計の針を巻き戻すような革命が成就した背景には、人々の信仰の厚さや伝統文化への自負があったのはもちろんだが、かつてのCIAの陰謀によるモサデグ首相失脚と石油国有化政策の挫折、それに続く国王と米国石油資本の癒着による利益独占と国民生活の窮乏を通して、米国への不信感が臨界点を越えて強まっていたという事情もあるだろう。1979年11月にはテヘランのアメリカ大使館占拠事件が発生。米軍の人質救出作戦は失敗に終わり、結局、交渉によって人質が解放されたのは1981年1月のことだった。ここまで事件が長期化したのは、長年の対米従属路線で国民を苦しめておいて米国に亡命した前国王への憤怒と米国自体への反感の強さゆえであったと考えられる。
イラン革命によるシーア派政権の成立は、隣国のイラクにとって大きな脅威となった。就任したばかりのサダム・フセイン大統領はイスラム教スンナ派のバース党を支持基盤とし、国内のシーア派を抑圧していたのである。ここに革命の輸出を恐れるイラクとアメリカの利害が一致し、米国はイラクに軍事援助を行った。後に湾岸戦争で使用されることになるイラクの兵器の多くは、この時に米国から援助を受けたものであるという。敵の敵は味方、という理屈で注ぎ込んだ大量の武器が、後に自らを脅かす凶器としてブーメランのように胸元に戻ってきたわけだ。皮肉なものである。
ペルシア湾の石油資源や領土を巡る対立もあって、1980年にイラクがイランに侵攻。当初はイラク軍が優勢であったが、イランを支援するシリアが石油パイプラインを封鎖したことで形勢が逆転。以後は一進一退の攻防が続き、88年に国連の仲介で停戦が実現するまで9年間にもわたる長期戦となった。戦争で両国ともに疲弊し、イランでは停戦直後にホメイニ師が死去したが、イラクでは膨大な軍事援助を受けたフセイン大統領が、かえって独裁色を強める結果となった。また、この戦争中にイラク軍による化学兵器を用いた国内クルド人の大量殺害があったという疑惑もあり、そういう点でも、安易な軍事援助が独裁権力の増長を招いた可能性が否めない。従来、日本では武器輸出に厳しい制限がかけられていたが、最近その制限が緩和されつつある。だが、目先の利害にとらわれて安易に武器輸出や軍事援助に手を染めれば、それは多くの人々の恨みを買う結果になるということは、歴史が証明しているのである。